メッセージ(大谷孝志師)
命に導く主イエス
向島キリスト教会 礼拝説教 2022年12月4日
ローマ5:12-21「命に導く主イエス」

 12月25日に降誕を祝うようになったのは、この頃ローマで行われていた異教の「太陽の誕生祭」に対抗して、「義の太陽の」出現である主イエス・キリストの誕生を祝う日に決めたからです。クリスマスは主イエスの誕生日ではなく、誕生をお祝いする日です。初代教会の人々には、主が生まれた日よりも、復活した日と使徒達に聖霊が降った日が重要でした。復活祭と五旬節、ペンテコステは主の復活後のかなり早い時期から祝われていました。しかし教会が各地に誕生し、成長するにつれて、誕生を祝いたいと思う人が多くなったのでしょう。いつ生まれたかの研究が始まり、3世紀の初め頃にアレクサンドリアのクレメンスが5月20日と推定し、4世紀には毎年祝われるよになりました。今では多くの国々で、主イエスの誕生をこの日にお祝いしています。

 私達も母から生まれた日に誕生を祝います。しかし私達の命は、その日に始まったのではありません。受胎以前にも両親の内に分かれて存在していたと学校で学び、知っています。更に聖書は、誰でも自分の命は遙か昔のアダムにまで遡れると教えます、その意味で人類は皆兄弟姉妹です。しかし私は、私という人間は、受精の時に始まったと考えます。神が定めた時に無数の卵子と精子の中から一つの組み合わせを決定し、卵子と精子がそれぞれ持つ遺伝情報が統合され、細胞分裂をし、私という全く新しい人が生まれたのです。

 さて、今日の題は「命に導く主イエス」です。「が与えられる」でなく「に導く」なのです。これ迄話した命は肉体の命です、ですが、今日の題の命は「永遠の命」のことです。この永遠の命は恵みによって主が与えるのものです。しかも、その永遠の命を求めてこの世に生きる姿勢が求められるものなのです。つまり、受け身ではなく積極的姿勢が求められるのです。「求めなさい。そうすれば与えられる」と主が言うように、与えれるのを待つのでなく、得たいと思って主に願い求める人に、主が与える命なのです。創世記に「神である主は、大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」とあります。神は人を共に生きる者として創造し、永遠の命を与えました。しかし最初の人アダムが罪を犯し、死がこの世に入り、人は永遠の命を失ったので、今、生まれながらの人は、肉体の命は持っていても、永遠の命を持っていないので、得なければなりません。しかし神は人を創造した時の目的通り、神と共に永遠に生きる者とする為に、主イエス・キリストの十字架の死の贖いにより、誰でも主イエスを信じるなら救われ、永遠の命を与えられて、神と共に、神が支配する世界に生きられる道を開いたのです。パウロが19節で言うように「一人の人の不従順によって、多くの人が罪人とされたのと同様に、一人(主イエス)の(十字架の死に至るまでの)従順によって多くの人が義人とされるのです。」永遠の命を与えられる道が開かれているのです。その方の誕生を祝うのがクリスマスなのです。

 永遠の命を得ることが何故人に必要なのでしょうか。永遠の命が無いと人はどうなるのでしょう。肉体の命と永遠の命があるように、人には肉体の死と永遠の死があります。永遠の命を持たない人は、神と関係を持ってないない人です。死んでいなくても、あの人は死んだも同然と言われる人がいます。また、ある物が本来の役割を果たせなくなり、他との正しい関係を失った状態を死んだとも言います。生まれながらの状態の人は、神との正しい関係を持っていなかいので、イエス・キリストという人がいたことは知ってはいても教会には来ません。機会が与えられ、教会に来て、教会の人達から、主イエス・キリストは今も生きて、全ての人共にいると聞いても、主がイエスが今もいるとは理解できなせん。聖書はそのような神との正しい関係を持たない人は死んでいると教えます。しかし本人は自分は死んでいると知りません。

 信じる前の私は、刹那的で上辺だけの喜びしか持てず、将来について色々な夢を持ちましたが、漠然とした不安が常に潜む希望でしかありませんでした。また、死んだら無になるとしか考えられず、自分にはどうしようもないと思い、死を恐れました。真の平安と喜びを持てなかったのです。神と無関係だった時の私は、不安にゃ恐れに束縛され、生き生きと自由に生きられませんでした。しかし、永遠の命を得ていると知ると、真理を知り、真理はその人を自由にするとの主の御言が事実と分かったのです。勿論、主を信じていても、様々な出来事を経験し、不安や恐れを感じることはあります。でも、希望を失わずに、前向きに生きられるのです。どんな状態でも、私は父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が豊かに与えられていると思い、安心できるからです。永遠の命を与えられるとはそれ程素晴らしいものです。

 でも、世の人々の多くはこの永遠の命に関心すら示しません。理由は、永遠の命は何もしないでも得られるものではないからです。永遠の命の存在を知り、得たいと思っても、求めなければ得られないものだからです。私達を含め諸教会の人々が、永遠の命を得る素晴らしさを周囲の人達に伝えてはいます。しかし、人々は得たいと思わず、求めようとしません。何故でしょう。私は恋心に共通するものが有るからと思いました。人は恋をすると生きるって素晴らしいと感じます。しかしその素晴らしさは、話を聞いただけでは駄目なのです。実際に恋をしてみなければ分からないからです。永遠の命も同じです。得てみなければ、実際に経験してみなければ分からないのです。ですから、主イエスを信じ、永遠の命を持つ者が世の人々と触れ合う中で、永遠の命を得て生きる素晴らしさを、体感してもらうのが一番良い方法だと思います。主イエスを信じ、永遠の命を得ると、万事を益とする主に希望を置くことが出来ること、主の愛に包まれ、生かされると、闇と不安の中ではなく、光りの中を希望をもって歩めるようになれます。人生何から何まで真っ暗闇の人生ではなく、どんな事態に直面しても、それを前向きに、安心して受け止められる人になれるからです。その為にはどうしたら良いのでしょう。

 私達は完全を目指していますが、完全ではないので、問題が生じると信仰が揺らぎます。しかし困難な状況に立たされ、不安や恐れを感じるのは、信仰を持っていてもいなくても同じなのです。しかし永遠の命を頂いていることを自覚していると、世の人々とは全く違う生き方が出来ます。人は弱い者です。でも、私達も弱いですが、聖霊が助けてくれるので、物事に真っ直ぐに向き合えるのです。永遠の命を持つとはそれ程素晴らしいのです。ですからこの生き方を通して、主イエスを信じ、主と共に生きる素晴らしさをまだ知らない周囲の人々に知ってもらいましょう。 主イエスは、この永遠の命という素晴らしい恵みの賜物を、全ての人に与える為に世に生まれたからです。その為に私達自身が、この喜びを心に深く刻んで待降節を過ごしましょう。