メッセージ(大谷孝志師)
マリアの信仰に学ぶ
向島キリスト教会 礼拝説教 2022年12月11日
ルカ1:26-45「マリアの信仰に学ぶ」

 今日は待降節第三聖日です。主イエスの母となったマリアの信仰を学ぶことを通して、クリスマスを迎える心の準備をしましょう。マリアはイスラエル北部のガリラヤ地方のナザレという町に住んでいましたが、その子孫からキリスト、救い主が生まれると預言されていたダビデ王の家系のヨセフという人の婚約者でした。一人の処女とありますが、処女は若い女を指す言葉なので、マリアはこの時、結婚が可能な年齢の女性だったと考えられています。その彼女の所に、御使いガブリエルが神に遣わされて来たのです。御使いは彼女に「あなたは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」と言いました。処女マリアに「あなたがは聖霊によって懐妊すると告げたのです。

 主イエスが処女から生まれたと聞いて、疑問を持つ人はこの世に大勢います。私もバプテスマを受けて間もない頃、教会に行っていたことがある同級生に、「おまえはクリスチャンだそうだが、処女降誕なんて馬鹿らしいことを信じているのか」と聞かれました。信仰に燃えていた私は「君は馬鹿らしく思うだろうが、全世界の2/3の人達が信じているし、僕も信じている」とムキになって答えました。そして、自然界の処女生殖等を例に挙げて、処女降誕は否定できないと熱心に主張したのを覚えています。しかし今は、処女降誕自体は大した問題ではないと分かっているので、そんな議論をふっかけられてもムキにはならないと思います。何故なら、イエスは、処女から生まれたから聖なる方なのではなく、神が人となって生まれたから聖なる方と知るからです。神が、全ての人を罪と悪が支配する闇の世界から救い出す為に、ただ一回の処女降誕という出来事によって、御子を人として誕生させたのです。

 これは様々な事例を挙げて可能性を論証したり、証明するようなものではありません。「あなたはこれを信じるか」と全ての人に神が問い掛けている出来事なのです。ですから、マタイ、ルカの福音書の降誕物語以外、聖書には処女降誕を思わせる記事が一切ありません。更には、キリスト教の文書資料を見ても、主イエス・キリストが人か神かという人性、神性の論争はあっても、処女降誕については論議が一切ないことからも明らかだと言えます。

 私達はこの待降節に、処女であるマリアがどんな信仰を持って、御使いガブリエルに告げられた事実を受け入れたかを学ぶことが大切です。マリアが妊娠することは、男性と性的関係にあったことを意味します。ユダヤでは、というよりどこの世界でもそうだと思いますが、婚約中に他の男性とそのような関係を持つことは、婚約者を裏切ることです。ユダヤでは特に、その結婚を定めた神に罪を犯すことであり、女性の意思によるのでなく、全く抵抗不可能と立証されない限り、死刑に定められていました。ですから彼女は、死刑を宣告されかねないことを御使いに告げられたということになるのです。

 マリアは恐ろしい結末を招き兼ねない出来事を告知されました。しかし、彼女は「おことばどおり、この身になりますように」と答えたのです。彼女の身に起きる事は、体に具体的変化をもたらし、誰の目も明らかなことです。しかも姦淫の罪を犯したとして処刑に値することでした。何故、マリアはそう答えることが出来たのでしょうか。彼女は、御使いが自分に告げに来たことは、主が既に決めている非常に大切な事を伝えに来たと悟ったからです。

 そしてマリアはこの時、自分への御使いの言葉を聞いて、自分が主の為に用いられる器に過ぎないと悟らされたのです。それだけではありませんでした。今、自分を主がしっかりと捉えていると知ったのです。なぜなら、御使いが神に遣わされて来て、自分の前にいることは、自分の全てが主のものとされ、自分にはどうにも出来ない状態にいることだからです。彼女は、この驚くべき経験により、自分の心も身体も現在も将来も、自分が生きてきた過去も含め、主に全てを委ねる以外にないと悟ったのです。そう信じたのです。

 この彼女を通して、主を信じるとはどういうことかを私達は学ばされます。人が主イエスを信じるとは、主に従い、主に服従して生きることなのです。パウロの手紙を読むと、自分は主の僕、奴隷、囚人と言っています。私達も主イエスを信じるなら、私達もその主の僕、奴隷、囚人なのです。マリアの言葉は、自分をその主の奴隷として受け入れていることを表しています。私達も彼女のように、自分の心も身体も、過去も現在も将来も、全てが主のものと信じて生きることができれば、マリアのように、そして使徒パウロのように、神の救いの計画の為の善き働き人、神が必要としている人になれます。

 とは言え、それでは自分の自由はどこにあるのかと思う人がいるかもしれません。中には、そこ迄言い切ると自分は嘘をついていることになるので、自分にはとても無理と言う人もいるかもしれません。それでもなお、自分は主を信じる者でいたいと思い、葛藤する人もいるかもしれません。主を信じる、主が求める人として生きることは、それ程に重く、大切な事なのです。

 さて、御使いが去った後、マリアは山地にあるユダの町に行きます。バプテスマのヨハネの母となる親族のエリサベツに挨拶に行く為でした。彼女がマリアの挨拶を聞くと子が胎内で踊り、エリサベツは聖霊に満たされました。彼女は大声で「あなたは女の中で最も祝福された方、あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは,どうしたことでしょう。あなたの挨拶の声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで踊りました。主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです」と叫びました。マリアは主を信じ、自分が主のもの、主の奴隷と認めました。御使いにより、自分に語られたことは必ず実現すると信じ、従ったからでした。その事により、自分の身にどんな事が起きようとも、自分は主の奴隷だから「御心を行って下さい」と言えたのです。ですから、主の御言葉は必ず実現すると信じる者は幸いと聖書は教えるのです。それが私達がよって立つべき真理です。信仰の出発点と言うべきものなのです。

 しかし、主の奴隷となることが幸いだと言われても、奴隷になったら、したい事が出来ない不自由な生活を強いられるのではないかと思う人がいるかもしれません。エリサベツの言葉と、この後、聖書に登場する様々な人々に起きる出来事は、そうではないと教えています。主の奴隷となるなら、逆に喜びに満ちた自由な生活に導き入れられるのです。自分が主の奴隷でいたくないと思う人は、本当に今自分は自由かどうか考えてみて下さい。正しい事が出来なかったり、常識や世間に惑わされ、自分は主の奴隷ではないと思っても、他の奴隷になっていないでしょうか。私達もマリアのように、自分を主のものと認め、自分の意思で決めて主の奴隷となり、主の愛と恵みを一杯に受け、真に幸いな人になりましょう。その為に主は生まれたのですから。