メッセージ(大谷孝志師)
変わることなき主の愛
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年12月11日
ヘブル13:1ー9「変わることなき主の愛」 牧師 大谷 孝志

 人は何故主イエスを信じて、キリスト者になったのか。私の場合、主イエスに語り掛けられ、主が生きていると知り、この主と共に生きたいと思い、キリスト者になる決心をした。しかし、他の人に深い失望感を味わった時、主イエスの愛は深く変わることがないと感じた。その時主イエスが私にとって希望であり、喜びとなっているのを感じたから。主イエスがいるから、私を愛してくれているから、私はキリスト者になれた。

 キリスト者は誰も、自分の生き方について様々な希望を持ってキリスト者になったし、これからなると思う。聖日礼拝で学んだが、キリスト者になることはそれ迄の生活を否定し、新しい人として新しい生き方を始めること。しかし、希望を持って歩み出してはみたものの、その難しさに気付く人は多い。なかなか思うような人生は歩めないから。

 この手紙の読者は、聖霊に満たされ、多くのしるしと奇跡を行った指導者達から神の言葉を聞いたキリスト者。私達が羨ましく思う彼らも、私達と同じような弱さを持っていた。彼らが立派なキリスト者であれば、このような勧めは必要なかったと思うから。私達も同じ弱さを持つ。しかし主を信じ、この世にキリスト者として生きている。生きていられる。主がキリスト者として生きる力と知恵を与えているから。しかしキリスト者として生きることは,互いに愛し合うこと、世の人も自分を愛するように愛することと聖書は教える。しかし人を見るとその人の欠点や短所が,と言うより、自分にとって許せない所が目に付き、愛せないことが。愛せよと言われているのに愛せない自分がどうしても気になってしまう。出来ないと思い、直そうと思っても,祈ってもなかなか直らない自分、更には、そんな自分が人に気付かれないようにと誤魔化している自分が嫌になることもある。しかし何故そうなったのか。自分がキリスト者になることによって、生き方、考え方の方向が変わってしまったから。主に愛されている自分を知った時、愛とは何か、自分は何者かを知ったから。だから,そんな自分に気付いた時、がっかりする必要はない。気付いているから、直そうとしているので、治り始めていると知ろう。

 でも、そんな自分や自分と関わってくる人だけを見つめていては駄目。益々泥沼にはまってしまうから。主イエスを信じている自分、その自分を愛している主を見詰めよう。すると今の自分を安心して受け入れられる。すると、神に喜ばれる自分になりたいと思う気持ちが湧き上がってくる。キリスト者として、自分を愛するように隣り人を愛し、主の愛に満たされた生活へと、聖霊に助け導かれて行く。そんな生き方が何故出来るのかと思うかもしれない。私達が信じる主は力ある素晴らしい方。聖書は「今持っているもので満足しなさい。主ご自身が『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われた」と教える。或る人が、自分の人生の歩みが足跡で示されている夢を見た。でも、ある所から足跡が一組だけになっていた。それは彼が最も苦しみを経験した時期。彼は『主よ、あなたはわたしが本当に苦しい時に共に歩いて下さらなかったのですか』と言うと、主は『よく見てご覧。あの足跡はあなたを背負って歩いた私の足跡だよ』と答えた。それが私達が「主は私の助け手。私は恐れない」と信じる主イエス。

 主を信じていても、苦難に直面する。しかし、私達がキリスト者として生きるなら、弱いように見えても強いし、何も持たないように見えても全てを持っている素晴らしい生き方が出来る。クリスマス。主を信じる素晴らしさを世の人々に知らせよう。「イエス・キリストは,昨日も今日も、とこしえに変わらない」方だから。主に感謝しよう。