メッセージ(大谷孝志師)
主は人生の導き手
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年12月18日
マルコ6:45-52「主は人生の導き手」 牧師 大谷 孝志

 人生は航海によく例えられる。聖歌に「人生の海のあらしに」があるが、今日の個所の弟子達も,ガリラヤ湖特有の突風に悩まされた。彼らは人生の嵐に悩まされる私達の姿でもある。主イエスは弟子達を無理矢理舟に乗せ、向こう岸へ行かせた。主が父なる神と霊的交わりを持つ為の時間が必要だったから。主はこの事をとても大切にしていた。主が御子でありながら、人としてこの世に生きたから。それには二つの目的があった。第一は,人がキリスト者としてこの世でどのように生きたら良いか、模範を示す為。だから私達は主イエスをこの世に生きる目標に出来る。その為には主のように、父なる神との霊的交わりの時を持とう。それにより聖霊の力を受け、主のように他者に寄り添い、他者の為に生き、他者の生き方が変わる働きが可能に。人の人生をそのように変える為に主は世に来た。

 第二は,全ての人の罪を贖う為。人は自分の罪の故に、人生の様々な嵐に悩まされ、挫折し絶望する。嵐に遭う意味も、遭うことにより将来得ることも分からないから。罪を取り除かれ、人が神の恵みと平安を戴いて生きる者となる為には、主イエスが完全な人として世に生き、神に呪われた者として、全ての人の罪を自分が負い、十字架に掛かって死に、神の裁きを受けなければならなかったから。

 主イエスは完全な人として生きていたが、弟子達は罪の中に生きていた。湖の真ん中で逆風の為に漕ぎ悩む姿が、その事を象徴的に表している。自分達だけが舟にいて、目標にいつまで経っても到達できない苛立ち、いつ舟が沈むかもしれないと思う不安が彼らを支配し、孤独故の恐怖が彼らを支配していた。しかし、主は彼らの状況と心の内を知っていた。だから主は湖の上を歩いて彼らに近づいて来た。彼らは、恐怖を抱かせている場所が、主の弟子である自分達にとって、陸と同様に安全な場所と知ることになる。昔、青年と一緒に淡路島に海水浴に行った。遊んでいる内に,ふと気付くと、足が届かない所にまで、流されていた。しかし命綱があり、それに掴まりながら泳ぎ、無事上陸できた。この経験から、どんな危険な状況でも、主が共にいるので、命綱が張られていて、そこが安全な場所とされていることを,知らされ、主を信じるなら平安を与えられると信じた。いつどこでもなのだが、思い掛けない出来事に直面し,動揺するとその事を忘れる。弟子達は湖上を歩いて来る者が主だと分からず、恐怖の叫び声を上げた。共にいて欲しいと願っていた主が来たのに。彼らは少し前に、主が五つのパンと二匹の魚で、五千人を満腹にした奇跡を体験。主は、神の力をそのまま受入れるので、世の常識を遙かに超えた力を発揮する方。しかし弟子達は五千人給食と湖上徒歩の奇跡を見ても駄目だった。私達も聖書を通して、主が神の力をそのまま行う方と知る。しかし彼らと五十歩百歩では。主が自分の人生の真の導き手として共にいるのに、それが分からず、不安や恐れに縛られていることが多いのでは。

 私達は、主を自分の主として信じているか。主は弟子達に「わたしに付いて来なさい」と言い、彼らは全てを捨てて主に従った。でも、主に従い切れない。だから「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言った。主は「自分の命を捨てよ」と命じたのだ。私達が自分の命を、主と福音の為に捨てるなら、人生の真の導き手である主イエスが自分と共にいて恵みと平安を与え、自分が今神の国にいると分かる。主はその為に世に生まれ、今も共にいて私達に「わたしに従えと招いている」と知ろう。