メッセージ(大谷孝志師)
光は闇の中に輝いている
向島キリスト教会 礼拝説教 2022年12月25日
ルカ2:1-7「光は闇の中に輝いている」

 その頃とは紀元前6年頃のことです。西暦元年が主イエスの誕生年と思っている人が多いのですが、この年に主が誕生したと定めたのは、紀元6世紀のエクシグウスという人です。実は、主が生まれたのはマタイの福音書によると、ヘロデ大王がB.C.4に死ぬ2年前頃なのです。主の誕生日と同様、誕生年も不明なのですが、全世界で西暦が間違いのまま用いられているのは、主イエスの存在そのものが重要なので、生まれた年がいつかは関係ないからです。

 キリストがダビデ王の子孫から生まれることは、旧約聖書が預言し、ユダヤ人には周知の事実でした。しかしダビデ家に属し、その血筋で、主の父親となるヨセフは、ルカ4:22に「この人はヨセフの子ではないか」とあるだけで、マタイ13:55は「この人は大工の息子ではないか」と名前も記しません。聖書が詳細には記していないのは、公生涯前の主イエスについても同様で、12歳の時の神殿巡礼の時の話しだけです。マルコが福音書を「神の子、イエス・キリストの福音」と書き始め、主の福音宣教活動がその大部分を占めていることが示すように、福音を伝えることが教会の使命の第一だったからです。

 さて、イエスは旅先で、しかも宿屋には彼らのいる場所がない状況の中で、布にくるんで馬桶に寝かされただけでした。この状況は、その半年前に生まれた親類エリサベツの子、後のバプテスマのヨハネの時とは大きく違っています。彼の場合、近所の人達や親族が、主がエリサベツに大きな憐れみを掛けて下さったと聞いて彼女と共に大いに喜びました。老祭司夫妻に漸く与えられた子の誕生を賑やかに祝う喜びの声が聞こえるようです。それに比べ、、主イエスの誕生日の様子は静かです。祝いに来たのは羊飼い達だけでした。彼らから話を聞いた人達は驚いたとありますが、お祝いにみどり子のイエスを見に来たと書かれていません。宿屋に居る場所がなかったとあることから、伝説では、洞窟で生まれたと考えられています。馬桶は壁に吊るされているので、足許に置かれるよりも埃を浴びずに済むので、衛生的ではあります。しかしどう考えても、主の誕生日には寒々とした印象しか受けません。

 それは何故でしょうか。ヨハネの福音書の1:11には「この方はご自分の所に来たのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」と記されています。エルサレムの遙か北にあるナザレから旅をして来て、自分の町ベツレヘムに身重の妻マリアと共に来たのに、宿屋にも泊まれかったのです。力を貸してくれる人々がいなかったと思われます。そのヨセフの姿に、「主よ、主よ」と叫ぶ群衆に慕われ、弟子達とは2年余り寝食を共にしながら、最後には見捨てられ、逃げ去られた主イエスの姿が重なります。比較的豊かな両親の元で、周囲の人々に祝福されて生まれたバプエスマのヨハネとは正に対照的なのです。更に私には、貧しい大工の子として、暗く寒々とした状況の中で産声を上げた主が、嘲られ、罵られて十字架の死を遂げた主の姿に重なって見えました。そして、このみどり子の姿に、主の救いを必要とする世の人々の現実をご自身の身に負われた主イエスの姿が表されていると私は知らされました。

 話は変わりますが、教会学校のクリスマス会やクリスマス礼拝後の祝会に聖誕劇をする教会が多いのをご存じでしょうか。そこでは、ヨセフとマリアはベツレヘムに着くと宿屋を捜します。ですが、どの宿屋からも断られます。

 しかし、ある宿屋の主人が馬小屋なら空いていると言って招き入れ、彼らはそこに泊まります。劇ではすぐに赤ん坊が生まれるのですが、今日の聖句にあるように、マリアが月が満ちて男子の初子を生むのは、彼らがそこにいる間でした。それは兎も角、劇では羊飼い達が来、続くように東の国の博士達が来て、黄金、乳香、没薬を献げて主を礼拝し、喜びが満ち溢れた場所になります。でも、これは先程のように聖書の記事とは違います。マタイの福音書では、新しいユダヤ人の王の誕生を知って来た博士達がベツレヘムに着いた時、ヨセフ達がいたのは馬小屋ではなく、家でした。その後、博士達に欺かれたヘロデは、ベツレヘム周辺の二歳以下の男子を皆殺しにしたと2:16に記されています。彼らの訪問は、誕生後一年以上経ってからだったのです。

 何故、イエス・キリストはこの世に生まれたのでしょう。この世が罪と悪に支配され、人々がその闇の中に生きていたからです。全ての人をその罪と悪が支配する闇の世界から、主が全てを支配する光の世界に救い出す為です。

 ヘロデは自分の権威、支配権を守る為に、それを脅かす危険性を持つ子を排除する為に幼児達を殺したのです。主の救いを必要とした闇に覆われた世の現実、自分の既得権を守り、自分さえ良ければ良いと考えさせる悪と罪の力が、この所業に象徴的に表れています。だからこそ神は、世に御子を与え、御子を信じる者をその悪の世から救い出す為の道を開いたのです。しかしそれが開かれていることは、神に知らされなければ人には分かりません。だから、東の国の博士達は星に導かれてエルサレムに、更にベツレヘムに行き主を拝しました。夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた羊飼い達は、突然現れた御使い知らされて、誕生した主をベツレヘムに捜し当てて拝し、神を崇めたのです。私達も聖霊に導かれ、教会の働きを通して、イエスが主キリストであり、主を信じる者は、新しい人としてこの世に生き生きと生きられると知り、主イエスを信じて救われ、神の子供達の一人となっているのです。

 しかし、クリスマスの讃美歌が流れ、イルミネーションがきらめいても、世の人々は自分の為に救い主が生まれたと知らずにいるままです。主イエスが約二千年前に世に生まれたのは、その人々を、神の恵みと平安に満ちた神の栄光が輝く世界に導き入れる為です。ミカ5:2に「ベツレヘム・エフラテよ、…あなたから私のためにイスラエルを治める者が出る」とあるように、ヨセフ家族がベツレヘムに来て、預言通り救い主がダビデの子孫からベツレヘムで生まれました。神は約束を実現する方なのです。宿屋に彼らにいる場所がないままマリアは月が満ち、男の子を産み、みどり子は馬桶に寝かされました。その光景には貧しさと悲壮感さえ漂います。しかし、私達には闇としか思えないその場所に、実は目に見えない神の栄光が光り輝ていたのです。

 今の世も闇に覆われ、戦争、飢餓、暴力、抑圧、差別に苦しむ人がいます。殆どの人は為す術も無く、闇の中で全てが通り過ぎるのを待つだけなのを私は感じます。その人々に光の世界に生きる希望を与える使命を、私達は与えられているのです。主イエスを信じる私達が、現状を変え、光と希望と将来を与える救い主がいると人々に知らせましょう。今はクリスマスです。闇の中にいて闇の中にいると知らずにいる人、自分が考える世界の外に光の世界があると知らずにいる人に、救い主誕生の福音を伝えましょう。「主イエス・キリストがあなたの為に生まれ、今もあなたを愛しています」と伝えましょう。