メッセージ(大谷孝志師)
完全を目指して生きよう
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年12月25日
ピリピ3:12-16「完全を目指して生きよう」 牧師 大谷 孝志

 年末になると、何となく慌ただしくなり、何か追い立てられるような、何かを忘れているような感じが付き纏うことはないか。教会暦ではクリスマスから一年が始まると考えるので、今日から新年、今日は元旦と言える。でも、やはり大晦日や元旦にこの一年をどう生きたか、この一年をどう生きるかを考えさせられるのでは。

 誰も、自分は完全だと言える人はいないと思う。でも不完全な人間と言っても、自分は不完全な人間だからと思い、出来ないと思い諦めてしまう人、不完全だからこそ完全を目指そうと頑張る人の二種類があるのでは。私達はどちらだろうか。

 この手紙を書いたパウロは、自分が不完全な人間と知っていた。私達も、良い事をしようと思っても出来ず、悪い事だと分かってもしてしまう。或いはこれが良い事だと思い、自分がしたり人に勧めても、自分の思いが正しく伝わらない事もある。いつも良い事が出来、相手に何が必要かを理解できれば、そんな事はない。でも、私達は不完全なので完全には出来ない。それが人間。しかし彼は、それを十分に承知していながら決して諦めていない。自分に自信がある訳ではない。思い通りにして来られたからでも、がむしゃらにやったら何とか出来たからでもない。自分は不完全と知りながら、何故そんなに積極的に生きられたのか。彼は目指すべき目標を知り、それを目指して走っていたから。勉強や仕事にしても、家事や育児にしても、目標を持つ人と目標が定まらない人では、その生き方が大きく変わってくる。目標を明確に持つ人は、人生に張りがあり、生き生きしている。

 確かに人は不完全だが、人生の様々な局面で、積極的に前進できるか、消極的になり、現状維持に逃げたり、背を向けるかは、目標への自分の思いが分岐点になる。だが、目標と言っても様々なものがある。過ぎたるは及ばざるが如しと言うように、大きければ大きい程、高ければ高い程良いと言うものではない。絵に描いた餅になりかねない。そしてうっかりすると、立てた目標に縛られ、それで元も子もなくなってしまう。そうならない為にも、パウロの目標の建て方に学ぼう。

 パウロは「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っている」と言う。この目標を彼は「私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と言う。キリストの苦難にあずかり、キリストの死と同じ状態は、十字架に掛けられ死ぬことだが、それが目標ではない。その道を歩むことによって、キリストのように、死者の中からの復活に達すること。その目標を目指して彼は走っている。勿論、努力や精進は必要。しかし、努力し精進すれば目標に達すると彼は思っていない。努力や精進は後ろのもの。自分の努力などを彼は後ろに忘れ去る。ただ、前のもの、目標に向かって身を伸ばしている。その姿勢がキリスト者の信仰生活の模範。

 彼は目標は「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださる賞」その賞を戴く為に彼は走り続けている。自分が努力をする、その努力を評価するのは神。その評価を神に任せる。そして、努力する者を神は正しく評価すると信じる。信じられるから彼は走り続けられる。来年がどうなるか私達には全く分からない。しかし、神が定めている世の終わりが来るまで、私達も目標を目指し、努力、精進しよう。主は賞を用意している、与えると信じて、目標を目指して私達も走り続けよう。それがこの世に生きるキリスト者として出来るただ一つの事だから。