メッセージ(大谷孝志師)
新生の時
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年1月1日
ヨハネ3:1-15「新生の時」

 私は今年七十七歳、喜寿になります。今日は元旦ですが、人は新年を迎えると「明けましておめでとうございます」と挨拶します。そして、人それぞれだと思いますが、これ迄の人生を振り返り、自分のこういう所は直そうとか、ああいう事はしないようにしようとか、色々と考えるのではと思います。12月も2月も大して変わらないのに、何故元旦になるとそう考えるのでしょう。
 一つには人間は弱い者だからだと思います。完全な人間は誰もいません。人は誰も自分の弱さ、欠点を嫌というほど知らされる時があります。できれば直したいと思いますが、持って生まれたもの、長い人生の間に身に染み込んだものは簡単には取れません。それに悪い事、厭な事と分かっていてもしてしまう弱さ、止めようと決心しても儚く崩れ去る弱さが人にはあります。更に言えば、逆に反面強さとも言えるものを持っています。人は自分の弱さや欠点を意識ばかりしていたら、落ち込み、時に立ち直れなくなってしまうからです。ですから普段はそれを意識しないようにしています。でもそれでは駄目だと思うので、年に一度元旦に気持ちを整理し、区切りを付ける為に反省し、新しい自分として出発しようとする時にするのではないでしょうか。

 さて、今日の聖書にニコデモという人が出てきます。彼はパリサイ人の一人で議員でした。日本語では訳出されていませんが、10節で主は彼を、イスラエルの名だたる教師と呼んでいます。彼は優れた指導者だったのです。聖書、神について精通し、教える立場にあった彼が、夜イエスのもとに来て、自分の主イエスへの思いを先ず告げました。他の箇所では、パリサイ人や律法学者達は悪意を持って論争を仕掛け、言葉尻を捉えて罠に掛けようとしたのですが、彼からはそのような印象を受けません。彼が何を求めたかは書かれていませんが、真剣な思いで、今の自分にとっての正しい生き方を教えて欲しいと思い、来たのだと思います。ですから主は彼に真理を示したのです。

 所で、彼は何故、夜に来たのでしょうか。イエスが昼は多くの人に囲まれ、ゆっくり自分の考えを伝えられないと思ったからでしょうか。それとも、指導者の立場にいる自分が、他の指導者達が危険視しているイエスの所に行くのには、目立たない夜の方が良い、ましてやイエスに教えを請う姿を他人に見られたくなったからでしょうか。そうかもしれませんが、聖書がこれを強調したのは、彼の心が真の光を持たない闇だったからです。そして自分達もそうと気付かないでいる世の人々の現実を象徴的に示していると言えます。

 ニコデモの挨拶を聞いた主は彼に「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言います。いかにも唐突な印象を受けますが、主は、人の心の内を知る方です。人目を忍ぶようにして夜尋ねてきた彼の挨拶を聞いて、彼が闇の中で悶々としながら模索しているのを鋭く見抜いたのです。そして彼が「どうしたら永遠の命を受けられますか」或いは「何をしたら神の国に入れますか」と尋ねようとしたその思いを知ったからなのです。

 彼は挨拶で、主イエスが神のもとから来た教師であり、神が一緒にいるから、エルサレムで驚くべき素晴らしい奇跡を行ったのだと認めているのです。確かに、真摯な敬虔な思いでイエスに尋ねています。しかし彼は、自分の言葉が「あなたのいるここは神の国です」と言っているのに気付いていません。

 ニコデモはまだ真実が分かっていないので、彼の言葉に喜びが伴っていません。何故でしょう、それが唯の知識に過ぎず、自分がいかに重大な事実を表明しているのかが分かってないからです。彼は自分の頭の中での考えで、主イエスのことを判断し、それに縛られ、そこに留まっていたのです。

 彼の心の状態を見抜いた主は「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と教えます。でも、まだ新生を経験していない彼は、主がマタイ13:13で言うように「彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしない」状態だったからです。ですから、世の常識でしか判断できず、「人は、老いていながら。どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか」と、そんな事は不可能ではと、洞察力も何も無い馬鹿げた質問をしました。しかし主は、彼を突き放さず、逆に優しく包み込むように丁寧に教えていきます。真理を求めて自分を訪ねて来たニコデモを主は愛し、心の中でどんなに求めても見付からないで悶々としていた彼に、真に求めるべき正しい生き方を教えます。でも彼は、目の前にいるイエスが神に遣わされ、神が共にいる方と判ってはいるのですが、古いユダヤ教の教えやこの世の常識に縛られているので、目の前にいるイエスが、神のひとり子であり、御子で、信じる者に永遠の命を与える救い主として世に来た方と分かりません。私達も、人々に主イエスを信じるなら、恵みと平安を戴き、希望を持って喜んで将来に向かって生きられると伝えていますが、やはり、殆どの人々が日本人の宗教観やこの世の常識に縛られているので、主イエス・キリストは十字架に掛かって死んだけれども復活し、今も目には見えないけれどのも、全ての人と共にいると伝えても、聞く耳を持たないのが現実と言えます。しかし、主イエスが人として世に生きていた時代も、その点では余り変わらないのです。しかし、このニコデモのように、自分の人生において真実な正しい生き方は何か、人としてよって立つべき真理はあるのか、あるとすれば何かと、彼のように求めている人は必ずいると、聖書はこの個所を通して私達に教えていると知りましょう。

 主は「人は、水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」と言い、古い考えから自由になって、私が言う事をそのまま信じなさい。私は知っている事、見た事を話しているのです。その事を信じるなら、あなたも神の国に入れますと教えました。しかしユダヤ教の名だたる教師のニコデモでさえ、どうしても信じられないのです。その時の主の思いは、私達がこの世の人に福音を伝えようとする時に味わうのと同じ思いでしょう。生き方、考え方が大きく転換しなければ無理なのです。主が言うように新しく生まれなければ、神の恵みと平安を戴いて、安心して生きられないのです。ですからパウロはUコリント5:17で「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と言います。先ず今、主イエスを信じ、受浸するなら、誰でも新しく造られた者となれ、主の十字架と復活による新しい世界である神の国に生きられる新しい時に人は生きていると、人々に知らせましょう。古い年は過ぎ去り新しい年が来ました。この年の初めに、私達も心新たに「新生」し、新しく造られた者となって、この一年、心新たに神と共に歩み出しましょう。