メッセージ(大谷孝志師)
主は必要を満たす方
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年1月8日
ヨハネ6:1-15「主は必要を満たす方」

 毎月第2週にヨハネの福音書から御言葉を学んでいます。今日は主による五千人給食の話です。福音書は歴史書ではありません。端的に言えば、主イエス・キリストがどんな方かを教える書物です。主イエスは三十歳半ば過ぎにガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けました。そして四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けた後、ガリラヤに行き、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝え、ガリラヤのカペナウムという町を拠点に、ガリラヤとユダヤ地方を巡回しながら福音を宣べ伝える生活をしました。今日の出来事もガリラヤ湖周辺での出来事です。主イエスと弟子達が別名テイベリア湖と呼ばれるその湖の向こう岸に着くと、太勢の群衆が付いて来ました。聖書はその理由を、主が病人達を癒やす奇跡を見たからと教えています。人々が、自分の人生や行いを正しくする為に、自分が主体的に何をどうすべきかを示す教えよりも、目に見え、身体で感じられる奇跡という分かり易い行為、自分達が受け身で実感できるものを求めるものに惹かれ易いということを示しています。

 主イエスと弟子達は山に登り、そこに座ります。それは、主が弟子達に律法を教える教師であることを示します。次にこの福音書の記者ヨハネは、ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていたと記します。これは1:29でバプテスマのヨハネが自分の方に来るイエスを見て「世の罪を取り除く神の子羊」と証したように、主は、出エジプトの際に神の裁きが過ぎ去る者だと示す血を塗る為に殺された犠牲の子羊のように、世の人々罪を取り除く為に世に来た方であることを暗示しているのです。主は目を上げて、大勢の群衆を見て、ピリポに「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」と尋ねました。5章にユダヤのエルサレムにあるベテスダの池で38年間病気で苦しむ人を癒やしたことが記されていますが、主は彼が求める前に常に、彼に何が必要かを見抜き、癒しました。主は自分に付いて来た人々が教えの言葉よりも空腹を満たすものを求めているのを見抜いたのです。

 聖書は、主がこう言ったのはピリポを試すためであり、「主はご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた」と教えます。聖書はこの事を通して、この世での日々の生活の中で「この人々に必要なものを与える為に、あなたは何をしたら良いと思うか、何ができると思うか」と、主に問い掛けられている自分達に気付きなさい、と私達に教えていると気付きましょう。

 聖書はここで弟子達の中の二人の主の言葉への応答を記します。一人はピリポです。彼は「一人一人が少しずつ食べるにしても、二百デナリのパンでは足りません」と言います。主イエスは旅を続けながら福音宣教をし、裕福な人の家で食事や宿泊をしていたので、主イエスの一行が二百デナリという労働者の二百日の賃金に相当するお金を持っていたとは考えられません。ピリポは主の問い掛けに応えて、彼らに食べさせるパンをどこで購入したら良いかをとっさに考えたでしょう。しかし大群衆を前にしては、いくら自分ができる精一杯の事を考えても、不可能としか思えなかったのです。そして、主がその問題を解決で来る方であると考えず、それを自分の常識の範囲で考えて結論づけ、その壁を乗り越えようとせず諦めてしまったのです。

 するとアンデレが「ここに、大麦パン五つと魚二匹を持っている少年がいます。でもこんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう」と言います。二人共、主の問い掛けに応えたいとは思ったのですが、自分の想像する範囲、今の自分が使えるもので判断したので、不可能と思うしかなく、諦めました。

 二人共、主と生活を共にする中で、主は力ある方と知っていた筈です。しかし問題は、彼らが直面させられている事態の解決を、主に期待しないことにあったのだと聖書は教えます。主は彼らの自分達の思いから出た反問に答えず、彼らに「人々を座らせなさい」と命じました。主はご自分が何をしようとしているのかを知っているからです。皆さんも聖書を読んでいたり、祈っている時に、突然御旨、或いは御言葉を示されることはないでしょうか。自分がどんなに不可能だと思い、従えないと思っても、主は自分にできるから、主がそれを成し遂げるので、その為に自分を用いようとして、その御旨を、み言葉を示したのです。ですから、示された御言葉には躊躇なく従えば良いと聖書は教えていると私は気付かされました。更に「その場所には草がたくさんあった」との言葉に、詩篇23編の「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます」という聖句が心に浮かびました。主がいる所、この礼拝堂を含め、集会の場、一人聖書を読み、祈る場、自分が主に心を向けている場は、そこが憩いの汀だと気付かされたのです。本当に感謝でした。

 座った男達は約五千人です。弟子達が不可能と思ったのは当然でした。しかし主は感謝の祈りを献げてから、人達が望むだけパンと魚を分け与え、ご自分が神の力を持つ者であることを示しました。そして人々が食べ終わると、主は弟子達に「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい」と命じます。彼らが集めると彼らの籠が一杯になりました。少年が持っていたパンを主が祈り、人々に分け与えた時、それが神の恵みの賜物となっていたのです。これは今日のように、聖餐式で牧師が祈り、配られたパンを各自が戴く時、それが人が作ったパンでなく、神の恵みの賜物である主のからだとしてその人の内に入ることを示しています。ですから、彼らが分け与えられたパンを食べて満腹したように、私達も主と共にいることを求めて主に心を向けるなら、主は私達に何が必要かを知り、私達が望むものを十分に与えてくれます。主は、人の力では為し得ない事をする方と信じましょう。

 この奇跡を見た人々は「この方こそ。世に来られるはずの預言者だ」と言います。預言者は先の事を予め言う予言者ではなく、神の御旨を託されて伝える人です。人々はイエスをキリスト、来たるべき王だと思ったのです。主は、人々が自分を王にする為に連れて行こうとしていると知り、唯一人山に退きました。彼らが、何故主イエスが神の御子であるのに、人となって世に来たのか、何故この奇跡をして見せたのかを考えようとせず、自分達が待ち望み、来るのを期待した方が目の前にいると思い、興奮してしまったのです。

 主は、全ての人に神の平安と恵みを与え、神の子となる資格を与える方です。主はご自分を信じる者を、この罪と悪が支配する世から救う為に世に来た方です。ご自分がキリスト、救い主であることをこの奇跡で示しました。しかし人々は上辺だけを見、自分達の望みを主に投影して興奮したのです。

 主は自分を捨て、自分の十字架を負ってご自分に従う者を求めているのです。主イエスを信じ、主に従うなら、その人は真の恵みと平安を与えられます。