メッセージ(大谷孝志師)
内面もキリスト者に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年1月8日
ローマ2:6-13「内面もキリスト者に」 牧師 大谷 孝志

 パウロは今日の個所で、自分達ユダヤ人キリスト者とギリシア人キリスト者の違いを強調し、彼らを見下しがちなユダヤ人キリスト者達に対し、あなたがたと彼らの現実を見ると、余り違わないと言う。パウロが行いより信仰を大事にしていると考える人がいる。しかし、彼の数々の手紙を読めば分かるが、彼は信仰があればそれで善いと考えていない。彼は命を掛けて信仰を実践した人。3回の伝道旅行、最後は捕らえられると分かってエルサレムに行き、そこから囚人としてローマに連行された。彼の伝道生活には信仰と行いがしっかりと結び付いている。

 信仰的という言葉があるが、何が信仰的で、何が信仰的ではないと分かっていても、信仰的でない事をしたら何にもならない。これは神に喜ばれる、これは喜ばれないと分かっていて、喜ばれない事をしたら、分かっていないのと同じこと。

 ユダヤ教徒にとって律法を持っていることは誇り。神は自分達を特別に選んで、神の民として生きる為に律法を与えたと知るから。ギリシア人は律法の大切さも律法を与えた神を信じる大切さも知らない。律法を与えられているか否か、その大切さを知ることと知らないことでは、大きな違いがある。しかし律法を持ち、その大切さを知っていても、それで安心していてはいけない、とパウロは言う。

 今日の箇所を読むとユダヤ人もかなり酷い律法違反をしていた印象を受けるが、実際の彼らは、礼拝出席、御言葉の実践等で、神への忠実さは私達とは比べものにならないほど忠実だった。勿論、彼らも自分達が罪を犯していることは自覚していたから、神殿で罪の赦しを求め、犠牲を献げた。そのように律法を守る我々、真の神を知る民である我々を神は滅ぼさないと信じていた。だが、彼はこの手紙を、そのようなユダヤ教徒に現実を知らせ、彼らに福音を伝え、キリスト者になるよう勧める為に書いたのではない。ローマの諸教会にいるキリスト者に向けて書いたもの。ユダヤ教徒に向けて書いているのように見えるが、実際はキリスト者に向けて書かれている。キリスト者が主イエスによって成し遂げられた救いの業により、自分達が主を信じて救われているから、バプテスマを受けているからと安心していると、ユダヤ人と同じ間違いを犯す危険があると彼が警告している。

 パウロは彼らに、信仰が死んでしまってはいけないと語り掛けている。大切なのは信じたかどうかでなく、今信じているかどうかだと。Tコリント9:24-27で彼は「私は自分の体を打ちたたいて服従させます。…自分自身が失格者にならないようにするため」と言う。世にはキリスト者以上に清く、誠実に生きている人がいる。主は、私達にもそのような生き方が出来ると教え、その力を与えている。自分は弱い、強い心になりたいと思うキリスト者はいる。しかし主を信じるなら、主が共にいる。だから私達は主が与えている力を発揮し、世の為人の為に良い働きができる。勿論人間だから完全ではない。でもその事に甘えず完全を目指そう。

 内面は人には見えない。上辺で誤魔化さずに、内面もキリスト者を目指そう。人は誰も相手の内面を裁けない。自分の内面を知るのは自分自身、自分の内面に責任を持てるのは自分しかいない。信仰が外面に現れていなければ、自分の内面で主に従い切っていない。外見上の信仰者らしさを主は喜ばない。彼はここでも、全ては神の支配下にあり、神は一人一人、その行いに応じて報いると教える。内面もキリスト者になるには忍耐と努力が必要。しかし内面もキリスト者となる時、主の栄光が私達の外面に見える信仰生活を通して現されていく。その道を歩もう。