メッセージ(大谷孝志師)
信仰の喜びに生きる
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年1月15日
コロサイ2:6-15「信仰の喜びに生きる」

 パウロはこの手紙の2:5で「私は肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたとともにいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰を見て喜んでいます」と言いました。コロサイ教会は前にも言いましたが、パウロの伝道によって生まれた教会ではありません。パウロらの同労者エパフラスから福音を学んだのです。彼は他の人からこの教会の様子を伝え聞いて、感謝と喜びをもってこの手紙を書いたのです。それも、彼らの姿を思い浮かべてではなく、聖霊が目の前に映し出す彼らの光景を書いているのです。

 不思議な事ですが、聖霊の働きは私達の思いを遙かに超えるものです。実は、その事を私達自身も経験しています。聖霊の働きにより私達は主イエスを身近に感じているからこそ、主に祈り求め、恵みと平安を実感しています。しかし現実には、私達は主の臨在を感じられず、主の力強さを感じられずに、祈っても答えられず、いつまでこの状況を主は放置するのだろうと呟くことが多いのではないでしょうか。主はその私達に一つのヒントを与えています。イザヤ59:1,2です。そこには「見よ、主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」と記されています。これは旧約聖書、主イエスの十字架の贖いがまだない人々への言葉ではあります。しかし主は、新約の時代に生きている私達に、これを自分達への言葉として聞くようにと求めている、と私は知らされました。心静かに御言葉に耳を傾けましょう。

 パウロは「あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい」と言います。彼はこの言葉で、キリスト者の誰もが光と陰を持っていると教えています。確かに彼らは信仰の喜びに溢れています。しかし世に生きている限り、聖霊が内に住んではいるが、罪という鎖に繋がれているのです。それにより、この世の諸々の霊の働きによる偽りの教えや人間的思いから出た考えに惑わされ、虜になる危険性を持っています。だからこそ「キリストにあって歩む」ことが必要と彼は教えています。

 私達はパウロのように主と直接接触することはできません。しかし私達も「キリストに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅く」することにより、溢れるばかりに感謝」できます。では、聞いたことも見たことも触ったこともないキリストに、どうしたら根を下ろすことができるのでしょう。そして貰えるのでしょう。彼は「キリストにあって満たされている」から出根を下ろすとは、キリストに自分をしっかり固定し、キリストから成長する為の水分や養分を吸収することです。これを言い換えると、実を結ぶ枝として主イエスというぶどうの木に繋がることです。そうすれば豊かな実を結べると主が約束しています。その事を信じましょう。「信仰の喜びに生きる」為に必要な第一はエリサベツが主の母となるマリアに言ったように「主によって語られたことは必ず実現すると信じる」ことです。黙示録21:9,10に「事は成就した。わたしは初めであり、終わりである。……勝利を得る者はこれらのものを相続する。私は彼の神となり、彼はわたしの子となる」とあります。これを信じるなら神の子どもとなり、「信仰の喜びに生きる」ことができます。

 パウロがこのように「キリストによって歩む」大切さを教えるのは、「キリストのうちにこそ神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っている」からです。神の性質は私達の目では見えません。パウロは、キリストの内に神の満ち満ちた性質が形をとって宿っているのを見たのです。彼はそのようなキリストを霊において見ました。その姿を見て、キリストがすべての支配と権威のかしらと知ったのです。私達は彼のその言葉を真実な証として聞き取りましょう。そうするなら、これ以降の彼の言葉に限りない力を私達は受け取れます。

 主イエスを信じた者は、水と霊によるバプテスマを受けました。この事を彼は「人の手によらない割礼を受けた」と言い表します。ユダヤ教の割礼は人の手により肉体に傷を付けたものですが、キリスト者はそうではなく、「肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けた」と教えます。脱ぎ捨てた肉のからだも人の目には見えません。は虫類や昆虫の脱皮を連想するかもしれませんが、その場合は、既に新しい体がその下に出来ています。古い皮を脱ぎ捨てることで新しい体が現れるだけです。しかしパウロは「バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされた」と教えます。主を信じてバプテスマを受けた時、その人は水中に沈みます。肉のからだを脱ぎ捨てることで、古い自分が死んだと教えます。私はバプテスマを受けた後、教会の十字架がとても新鮮に見えたのを覚えていますが、自分に明確な変化を感じられなかったのも覚えています。

 そしてパウロは、読者は主イエスを信じて救われたのだが、何故主イエスを信じたのか、何故救われたと思ったのかを考えさせます。それはその時、自分の頭の中というか、唯漠然と皆が信じている主イエスを信じたいと思ってバプテスマを受けたのではなく、今主が生きて自分と共にいると信じたからだということ、そして十字架に掛かって死んだイエスが今も生きているということは、神が御力をもってイエスを復活させたからで、それ以外に考えられないことだと考えることで、「キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じた」からこそ主イエスを信じたと気付きなさいと教えたのです。

 そして読者が今、この世において神に恵みと平安を与えられて、神に愛され、守られていると感じる中で、肉の家族ではない人々を、神が与えた神の家族として受け入れ、互いに愛し、支え合って生きていられるのは何故かを考えさせます。今は福音を聞き、イエスを信じ救われていても、かつては、神に背き、霊的に死んだ者だったのに、神はイエス・キリストの十字架の死という犠牲の故に、無条件で全てを赦し、キリストと共に生かしたから今がある、と彼は教えます。それは神が「私たちのすべての背きを赦し、私たちに不利な、様々な規定で私たちを責めて立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いて」下さったからであり、「様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにしたから」と教えます。私達も、人を神の愛から引き離し、虜にしようとする罪と悪の力が支配する暗闇の世界から、神が偉大な御力によって、御子イエス・キリストが支配する光の世界に移したので、神の世界に生きていられます。これは目に見えず、人の知恵では理解も納得もできません。父なる神に、主イエスに祈り求め、聖霊の助けにより信じる以外に道はありません。私達もこれ信じ、信仰の喜びに生きる者となりましょう。