メッセージ(大谷孝志師)
主イエスのため息
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年1月15日
マルコ7:31-37「主イエスのため息」 牧師 大谷 孝志

 福音書には主イエスによる多くの癒しの奇跡が記されている。今日の個所にも、主の耳が聞こえず、口のきけない人の癒しが記されている。私達の教会にもその当時に主イエスにお願いしたら、癒されたかもしれないと思う本人や家族が病気の人々がいる。祈祷会でもその人々の為の祈りが繰り返されている。主は「信じる者には、どんなことでもできる」と言い、「私の名によって求めることは、何でもそれをしてあげる」と約束する。この前の箇所でも、悪霊に憑かれた娘が、母の熱心な願いによって癒され、ここでも連れて来た人々の懇願によってその人は癒された。他人であれ本人であれ、主イエスに真剣に願い求めれば癒される。これが聖書が私達に伝えているメッセージ。とは言え、熱心に祈り続けても、一向に癒される気配さえ感じられない経験をしてる人が多いのがは現実ではないか。

 主が癒やしてくれると信じ切れないので、癒されないのだろうか。その人の信仰が問題なのでは決してない。私達は主イエスを信じて救われ、神の子どもたち、神のものとされ、永遠のいのちを与えられている。私達は身も心も主によって新しく造られているので、生活のあらゆる面で主イエスの存在と力を感じられる。世に人として生きていた主イエスに癒しを求めて来た人達も、主が求めに応えて癒しの奇跡を行うと期待したから、懸命に祈り求め、主がそれに応えて奇跡を行った。

 さて、主はその人だけを群衆の中から連れ出し、ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾をつけて、その舌に触った。しかしそれだけではなかった。主はその後、天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」すなわち「開け」と言った。するとすぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。

 この深く息をするは非常に強い意味の言葉。口語訳聖書では「ため息をつき」と訳したので、題にこの言葉を使った。普段私達も、ため息をつくことがある。がっかりしたり、諦めたりする時に。しかしこのギリシア語は、強い感情表現の言葉。パウロはキリスト者の内的闘いを表す言葉として用いた。主はここでサタンとの闘いの中で感情的に激しい興奮を覚えたと考えられる。他の聖書箇所では、主が簡単に癒す印象を受けるが、サタンは、主が十字架に掛かって死ななければならない程、人を圧倒的力で支配していた。主は耳が聞こえず、口のきけないこの人に、悪の力に束縛されている人間の現実を見ていた。だから深く息をした。

 彼は、罪人としての私達の象徴的姿と言える。主が開けと言ったのは、彼の耳という体の一部を開く為だけではない。サタンの力を打ち破り、彼の人格、人生全体をその束縛から解放する為に発した言葉。「開け」は単に開くではなく、「完全に開く」という強い意味を持つ。聖書は、苦しむ人が癒されることは、簡単な事ではないと教える。しかし私達は、パウロが「神が私達の味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」「これらすべてにおても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」と言うように、私達は主の愛と恵みの支配の中に移され、世に勝利者として生きている。私達は主に願い求める前に大切なことがあると知ろう。それは主が自分と共にいて、私の全ては主よ、あなたのものですと告白し、全てを主に委ね、主のものとして生きること、自分を捨てて主に従うこと。主が彼に言った「開け」という言葉を、サタンに拘束され、それに気付かず、心を開き切れないで、ただ自分の思いだけを主に伝えようとしている私達への言葉と気付こう。心を開き、主に全てを委ねる者になろう。