メッセージ(大谷孝志師)
たとえそうでなくても
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年1月22日
ダニエル3:13-27「たとえそうでなくても」

 第四週に旧約を学んでいますが、アドベントが間に入った為、久し振りにダニエル書を学びます。ここに出てくるシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、バビロンのネブカドネツァル王の命によりバビロンに連行されたイスラエルの民のダニエルを除く三人の少年です。先々週のCSで学びましたが、ダニエルが王が見た夢の内容と意味を、神が与えた知恵によって解き明かしました。王はその事に非常な驚きを感じ、彼をバビロン全州を治める長官に任命し、彼の願いによって、三人をそれぞれ州の長官に任命したのでした。

 ネブカドネツァル王は、その出来事を通してダニエルらの信じる神の偉大さは知りました。でも、他の神々を信じ、礼拝することは止めませんでした。1節に王が金の像を建てたとあります。でも12,14,18節を見ると、神々とその金の像が区別されています。王に何らかの事情で、自分の威信を示す必要があったのでしょう。それで金の自分の像を建て、国内の全ての民にこれを拝むよう命じたと思われます。これは紛れもなく偶像なので、シャデラク達はこれを拝めとの王の命令に従わなかったのです。異国人の、しかも征服民族の彼らが突然州の長官に任命され、重用されていることに嫉妬した人々がそれを知り、三人を中傷して「この者たちはあなたを無視して、あなたの神々に仕えず、お建てになった金の像を拝みもしません」と告げ口したのです。

 王はその訴えを聞いて怒り狂いました。そして彼らを連れてくるように命じ、彼らは王の前に引き出されたのでした。王は自分の威信にかけて、彼らに「お前たちは私の神々に仕えず、私が建てた金の像を拝まないのは本当か」と問い糾しました。そして、もしおまえたちが、ひれ伏して私が造った像を拝むなら赦してやる。でも、拝まないなら、おまえたちは、即刻、火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からおまえたちを救い出せるだろうか」と言ったのです。ネブカドネツァル王は、2:47で、ダニエルに「あなたがたの神こそ、神々の中の神、王たちの主」と言ったのです。しかし時が経ち、自分の威光と力の偉大さを誇るものの、不安を感じるようになったのでしょう。いくら尊大に自分を誇示しようとしても、彼も人として弱さを持っていたからです。ですから大きな自分の金の像を造らせ、その前に人々をひれ伏せさせ、人々の心に自分の偉大さを刻み込ませようとしたのです。更に、シャデラクらが信じ、仕えている神でも救い出せないだろうと彼らの神を蔑み、自分の偉大さを誇示しようとしたのです。しかし聖書は、どんなに王が尊大に振るまったとしても、イスラエルの神はシャデラクらを通してその偉大な力を王に示しました。捕囚の民であるご自分の民に、自分達の神こそ唯一無二の神であること知らせ、自分達の神への信仰を堅くさせたのです。

 ネブカドネツァル王に、燃える火の中にお前達を投げ込むが、お前達の神にお前達を救い出せるかと嘲るように言われたシャデラクらは「王よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません」と堂々と王に応えたのです。ここに、私達信仰者の立ちべきところが示されています。

 シャデラクら三人は、自分達の神を信じ切ってているからです。ですから、たとえどんな事になったとしても、自分達の神を信じ続けると言えたのです。

 私達の信仰は、主イエスに全てが掛かっています。主イエスは、私達の罪を贖う為に十字架に掛かって死にました。墓に葬られました。しかし、三日目に霊の体に復活したのです、ユダヤ人を恐れて戸に鍵を掛けて閉じ籠もっていた弟子達のいた家に入ってきて、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたのうちにあるように」と言いました。そしてTコリント15:6によれば「五百人以上の兄弟たちに同時に現れ、大多数は今なお生き残って」いたのです。そして、今も生きて、自分と共にいると信じるから、私達はキリスト者としてこの世に生き、こうして主を礼拝しているのです。もし今、ここに主が共にいなければ、私達が礼拝していることも、信じていることは空しいです。しかし私達は、主イエスが目には見えなくても自分と共にいる、と信じてこの世に生きているでしょうか。私は牧師です。説教準備をしている時、聖書や宗教書を読んでいる時、またデボーションという、神に心を向けて祈ったり、瞑想したりしている時は、勿論主イエスを意識し、心を主イエスに向けています。でも人間ですから、先日の祈祷会で学んだ箇所にあってように、「密かに行っている、口に出すのも恥ずかしいことをしてしまう」時があります。そんな時は申し訳ないけれど主イエスを意識していないというか、怖くて堪らないので考えないようにしています。サタンは私達を主から引き離そうとして、様々に誘惑してくるのです。また試みにも遭わせます。私も病気になると死を意識します。私には家族がいる。死んだら何もできなくなり大変と思い、生き続けられるようにと祈ります。しかし今日の聖書は、生き続けられるから主を信じ続けられるのかと、問い掛けていると気付かされました。

 王はシャデラクらを殺そうとしています。彼らは死に直面してます。確かに彼らは、自分達が仕える神は、自分達を燃える炉からも救い出せると信じてまする。しかしその先があります。神が助け出さなくても、自分達は神ならぬ神に仕えず、金の像、偶像を拝まないと言い切ったのです。彼らは神が自分達を救い出せる神だからその神を信じ、仕えているのではないのです。

 そうです。私達が信じ仕える神は、御心のままに全てを行う方なのです。彼ら三人は、神が自分達に何をしてくれるかではなく、自分が神に何をしたら良いかを考えて行動したのです。それが真の信仰者と聖書は教えています。

 ネブカドネツァル王は彼らの返答を聞き、怒りに満ち、彼らに対する顔つきが変わりました。そして、炉を普通よりも七倍も熱くするという自分が考え付く限りの方法で彼らを焼き尽くそうとしました。その炎は三人を炉に投げ込もうとした者達を焼き殺す程でした。しかし驚くことに、王が見ると、炉の中に火の中を縄を解かれて歩く四人がいたのです。彼らは何の害も受けていないばかりか、第四の者の姿は神々の子、つまり私達の表現でいえば、御使いに見えたのです。神に自分の心と体を差し出し、無条件で自分が信じる神に仕える三人の若者を、神はその不思議な力をもって助け導き、恵みと平安を与える神であることをバビロンの王ネブカドネツァルに示したのです。その神こそ「そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」私達の神。十字架と復活の主、御子イエス・キリストを信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ者とする、私達の父なる神なのです。感謝!