メッセージ(大谷孝志師)
神は何を喜ぶか
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年1月29日
ヨブ22:1-4「神は何を喜ぶか」 牧師 大谷 孝志

 昔、教会に友人を誘った宗教は弱い人間に必要なのだ。私は宗教を信じなくても自分の力で生きていけるから教会に行かない」と断られた。親戚の伯父も同じような事を言っていたが、朝晩神棚の前で手を合わせていた。「それは宗教ではないのか」と尋ねると「人として先祖を神として敬うのは当然」と答えた。毎年、新年には大勢の人が初詣に行く。それが良い事、当然だと思っている。しかし先祖の霊を拝み、神仏の加護を求めても、日常生活で神仏に頼っているかと言えば、決してそうではない。必要だと思う時、或いは習慣的に宗教心が表に出るだけ。

 でも私達はどうか。礼拝に来ても、会堂を出ると主の事を忘れたり、困った時に主を思い出し、そんな自分にはっとすることはないか。信仰がその場しのぎになってはいけない。でも主イエスを信じている私達は、自分の弱さを素直に見つめられる。主を信じても完璧な人間になった訳ではない。完璧を目指しいるだけ。弱い自分が厭になる時もあるが、主は私の弱さを知り、それを克服しようと努めるなら、その弱い私を赦していると信じられる。だから前進できる。昔は弱いから宗教が必要なんだと言われてむっとしたが、今は「そうです。自分が弱いからこそ、主イエスを喜んで信じている」と言える自分を感じ、主に感謝している。

 旧約にヨブという人がいた。彼は「正直で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。彼は突然全財産と子供達をなくしたが、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」言い、足の裏から頭の頂まで悪性の腫れ物に覆われても、「私達は幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けるべきではないか」と言う。彼は神がこの災いを与えたと知るからそう言った。何と強い人間かと思うかもしれないが、私は、彼も心底自分の弱さを知るからそう言ったのだと思う。

 パウロは言う「神がわたしたちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と。更に「苦難をも喜んでいます。それは苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私達は知っている」と言う。聖書は、主イエスを信じる者は、自分の弱さに負けない強さがあり、どんな局面に立たされても、失望せず、後ろ向きにならず、自分らしさを失わずに生きられると教える。主を信じていても信じていなくても、人は苦難に直面する。しかし主イエスを信じていると、彼がUコリント4:8-9で「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられません。倒されますが、倒されません」と言うような生き方ができる。彼は「私が弱い時にこそ、私は強い」とも言う。パウロの手紙や使徒の働きを読むと、彼の何者にも負けない力強さを感じる。しかし彼自身は、自分の弱さを心底知っている。自分が弱く壊れやすい土の器に過ぎないと、彼自身が認めている。彼の強さはどこから出て来たのか。それは、彼が計り知れない力を神に与えられていたから。だから聖書は、私達に自分達も土の器に過ぎないと認めれば良いと教える。それによって私達は、弱さに、どんな境遇に置かれても、それに負けない強さを持てる。計り知れない神の力がその私達に中に入れられているから。神は私達が形だけの信仰者であることを望まない。福音の素晴らしさを、主イエスを信じる者に与えられる喜びをまだ知らない世の人々に、大胆にキリスト者としての弱い自分を現して行こう。その人生を神が私達に望んでいるから。御力に溢れたその人生を力強く歩もう。