メッセージ(大谷孝志師)
主イエスを信じる目的
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年2月12日
ヨハネ6:22-40「主イエスを信じる目的」

 この箇所の前にはマタイとマルコと同じ出来事が短く記載されています。荒れ始めた湖にいた弟子達の所に、湖の上を歩いて主イエスが近付いて来ます。それを見て彼らは恐れますが、主に「わたしだ。恐れる事はない」と言われ、喜んで主を迎え入れます。するとすぐに目的地に着きます。ヨハネだけが、主が共にいれば平安になり、目標を達成できると淡々と記しています。

 続いてヨハネは群衆の様子を記します。五千人がパンを食べて満腹になった奇跡を経験し、イエスを王に担ぎ上げようとしたが、主が一人山に退いたので、彼らは恐らく、感動が覚め止まなかったのでしょう、翌日迄その場に留まっていました。しかし弟子達だけでなく主もそこにいないと知った人々は、やって来た数艘の小舟に乗り、主を捜しにカペナウムに出掛けたのです。そこで主を見つけた彼らは、いつここに来たのかと主に尋ねます。これは、主が姿を隠したことへの不満から出た言葉です。彼らにとって、イエスは自分達の欲求を満たす為だけの人に過ぎなかったことを、示しているのです。ですから、主はそれを見抜き「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからでなく、パンを食べて満腹したから」と彼らに答えたのです。

 主イエスは彼らが自分を捜しているが、なぜわたしが五つのパンで五千人もの人々を満腹させたのか、その理由と目的が判っていないことを指摘したのです。彼らは、自分達を満腹させ主イエスを、自分達の欲求を満たす力ある方、今後の自分達の生活を保障する方と思ったから、いなくなった主を捜し廻ったのですた。しかしその主イエスは、神が「御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つため」に、主を信じた人々に「神の子どもとなる特権」を神が与える為に、世に遣わした方なのです。主は、そのように神と人との関係を正しい霊的関係に戻す為に自分が世に来たことを知らせる為に、父なる神の力により、五千人供給食の奇跡を行い、信仰が形骸化し、自分達中心に物事を考え、心が神から離れ、罪と悪に支配され、霊的闇の中に生きる世の人々に対する父なる神の愛の思いを知らせたのです。

 しかし、五千人の人々が五つのパンと二匹の魚で満腹するという大きな奇跡を体験しても、人々が霊的盲目状態のままで、父なる神の深い愛を悟れそうもないと知った主は。彼らを霊的に開眼させる為に、非常に強い調子で神の御旨を伝えます。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、父である神が証印を押された」と教えたのです。彼らが体験した事は確かに驚くべき奇跡でした。しかし、彼らが食べたパンは、彼らが食べれば無くなってしまいました。しかし、主が感謝の祈りをささげてから人々に分け与えたパン、彼らが食べたそのパンは、主が量的に増やしただけのパンではなく、実は私達が聖餐式で戴くパンのように、神の恵みに満ちた霊的食べ物、主イエスが御子であると知らせているパンだったのです。人々はその事が分からなかったのです。正に、教会に初めて来て、福音を聞き、キリスト者の体験談、証しを聞いても、聖書の言葉が神の言葉で、霊的食べ物であると分からなかった求道時代の私達のように、世での経験で得た知識に惑われて、真理を知ることが出来なかったのです。

 さて、主に「永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」と言われた人々は、その為には何をしたら良いかと尋ねました。マルコ10章にある永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたら良いか」を尋ねた多くの財産を持つ人のように、ユダヤ人は、永遠のいのちを与えられるのは、御心に適う事をした人と信じていたからです。だから何をしたらよいかと尋ねたのです。

 主は確かに、永遠のいのちに至る食べ物の為に「働きなさい」と言いました。しかし神が人に求めるのは、人が自分の力で良い事、正しい事をするという「行い」ではなく、同じ行いでも、信じるという心の向きを変えるという「行い」なのです。自分や世のものを第一にするのではなく「主イエスを第一にする心」にすることです。ですから「神が遣わした者を信じること」を神が求めているのですから、この私イエスを信じれば良いと教えたのです。

 すると彼らは、それなら、あなたが神が遣わした者であると信じられるようなしるしを行って見せて欲しいと言います。彼らはと言えば、少し前に主イエスが行った「五つのパンと二匹の魚で自分達五千人を満腹させた奇跡」の体験者なのです。そして、このイエスこそ「世に来られるはずの預言者だ」と言い、イエスが神が遣わした方と分かっていたのです。しかし彼らは、出エジプトの時の事を引き合いに出します。「エジプトでは肉鍋の側に座り、満ち足りるまでパンを食べていたのに、あなたがたは、この荒野で飢え死にさせる為に我々を導き出したのか」と不平をモーセとアロンにぶつけた時、神が天からのパンであるマナを彼らに与えたのと同じ事をして見せよと迫ったのです。つまり、子供が持っていた食べ物をただ増やすのではなく、天からのパンという特別な食べ物を与えることをイエスに求めたのです。そうすれば、自分達はイエスを神が遣わした者と信じると言ったのです。しかし主は、天からのパンをモーセを通して与えたのは神です。それに、神が私を通して与えるか否かは御心次第なのに。私に天からのパンを与えよと求めるのは間違いと気付きなさいと教えます。しかし私はあなたがたに言います。「私の父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです」と。そして、それは神のパンであり「天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです」と言います。五千人への供食の出来事は、夢でも幻でもなく、神の力によって起きた現実なのです。この出来事こそが、神が天から下っていて、世にいのちを与える「天からのまことのパン」を、彼らに与える方であることを示すしるしなのです、と主は教えたのです。しかし彼らは、その真のパンをいつも与えよとイエスに迫ったのです。人は誰も自分のこの世の平安を求めるからです。しかし、この世の食べ物は食べれば無くなり、食べられなければお腹がすいて不安や恐れに囚われてしまいます。人に真に必要なのは、永遠のいのちに至る食べ物を戴き、神に受け入れられ、神と共に永遠に生きる神の子供となることなのです。その永遠のいのちに至る食べ物こそ、主イエスであり、主イエスを信じればそうなれます。それが神の御心だから、主は世に来て御心が何かを、自分を通して人々に示したのです。しかし彼らは主を見たのに信じられませんでした。この事に、世の人が私達を見て主イエスが救い主と信じることの難しさを改めて知らされます。しかし、私達は信じられたからここにいます。その事に希望を持ちましょう。私達は主を信じているから主を証でき、世の人が私達を通して救われると信じましょう。