メッセージ(大谷孝志師)
共に生きる事を大切に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年2月12日
マルコ1:29-34「共に生きる事を大切に」 牧師 大谷 孝志

 福音書には主イエスによる奇跡が多く記されている。そのような奇跡を主にお願いし、して頂けたら、どんなに素晴らしいかと誰もが思うのではないか。キリスト教の牧師が癒しの奇跡を行い、そのはっきりした結果を見た人達がいると聞いた。それなら門前市をなす教会になったかというとそのニュースは聞かない。キリスト教では、奇跡は他の宗教の方々がするものとは少し性格が違うようだ。

今日の御言葉はペテロの姑が癒された話。「イエスがそばに近寄り、手を取って起こされた。すると熱が引いた。彼女は人々をもてなした」との記事の最後の言葉は、主イエスの奇跡には理由と目的があることを暗示していた。癒しはその人の願いを叶える為でなく、その人が神の為に自分がこの世でしたいと願う事が出来るようにする為に、生き生きと自分らしく生きる為に主が行う、と私は知った。

主を信じていても、病に限らず様々な試練に会う。しかし聖書はどんな試練に遭おうとも、それを恐れる必要はないと教える。パウロがTコリント10章で言うように、主は耐えられない試練に遭わせないし、すぐには分からなくても、その試練には意味があると分かる時が必ず来るから。主は私達の為に、災いではなく、平安を与える計画、将来と希望を与える計画を既に立てていると信じ、全てを主に委ねていれば良い。どんな試練でもそこから新しい道が始まると信じれば良い。

 確かに人生は儚いもの。しかし主は、その長短に関わらず意味を与えている。その意味はその人にしか分からない。他人からすれば、その人の人生は、この世においても、天に召されてもその生き方しかなかったと思うしかない。その人の人生はその人以外のものではないから。その人がその人なりの人生を生き、天に召される。そこにその人の人生の重さと尊厳を感じることことが大切なのでは。

 とは言え、病気や障がいを負う人負わない人、絶望する人や挫折する人もいれば、しない人もいる。なぜ人は自分が望む人生を送れないのだろうか。教会に行かない主を信じている人で「イエスが嫌い」が理由の人はいないと思う。しかし物理的、精神的に行けなくなり、行けない病に罹る人はいる。たとえそうでも安心しよう。主は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人です。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」と言うから。確かに教会に行けない、生きたくないと思っても、その人が自分なりに幸せになりたいと思うなら、なれると知れば良い。主は、どんな人でも平安に人生を過ごせるようにしてくれる方。だから主に助けを求めて礼拝に来れば良い。主は「求めなさい。そうすれば与えられます」と言う。神は天にいる私達の父なので、神に求める私達に良いものを与えるからと教えた。それは私達自身の為だけではない。私達が主に仕える者となり、互いに仕え合う者となることが必要だからと知ろう。天地創造の時、神は「人は一人でいるのは良くない。相応しい助け手を造ろう」と言い、助け手として女を造った。自分の人生は自分のもの。しかし自分の人生は他人との関わりなしには成り立たない。他人の助け無しに真に幸いになれない。

 主は十字架上で死んだが、復活して弟子達に現れ、彼らと共にいることを示し、主と共にいる喜び、互いに共いることの喜びを彼らに体験させた。私達は、世に生きる限り共に生きることを阻ませる様々な試練に遭う。その時、自分は一人で生きているのでは無いと気付こう。自分が生きているのは、他人が共に生きているからと分かると勇気を持って生きられる。何より、主が共にいて助け導くから。