メッセージ(大谷孝志師)
主に喜ばれる者になろう
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年2月19日
コロサイ2:16-23「主に喜ばれる者になろう」

 この手紙は、エパフラスから福音を学んだ人々によって生まれたコロサイ教会に宛てられたものです。パウロは、この教会の人々が彼から学んだ福音にしっかりと立っていると知ってはいました。しかしこの教会にも、真のキリストの体である教会であり続ける為には、彼が警告し、人々自身が克服しなければならない問題があると知らされたので、この手紙を書いたのです。

 彼が「こういうわけですから」と書いたのは、彼らがキリストの十字架の贖いにより、罪を赦され、神のものとされ、ただイエスを自分の主と信じる者となり、自分を捨て、自分の十字架を負って主に従えば良い者とされているのですからという意味です。2:2に「肉体においては離れても、霊においては、あなたがたとともにいて、あなたがたの秩序と、キリストに対する堅い信仰を見て喜んでいます」とあるように、この教会は順調に成長しています。

 しかしこの教会の内外にも、キリスト者はこうあるべきと教え、彼らの言動を批判する人々がいました。キリスト者も人間なのです。どうしても自分の「信仰的確心」にこだわる弱さを持っています。人はそれぞれ、家族や生活する土地、人間関係で、正しい事、すべき事の基準が違います。相手も主イエスを信じ、主に喜ばれようとして生活しているのに、自分の基準に合わないと、それは違う、それでは証しにならないと思い込んでしまい、相手に自分の基準を押し付けてしまうことがあるからです。コロサイ教会の人々の中にも、ただ主イエスを信じていれば良いのではなく「食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで」、これをしてはいけない、こうしなさいと忠告したり、そのままでは神に喜ばれないと警告する人々がいたようです。確かにレビ記には汚れたものについての規定がありますが、グノーシス主義の影響を強く受けた信徒の中には、色々のタブーや迷信、慣習、禁欲や修行をすること、断食やある種の食べ物や飲み物の節制、禁止をすることで、より神に近付けるし、神の啓示を受ける者に相応しくなれると教える人達がいたのです。それだけでなく、死後、神に受け入れられる聖い者である為には、この世に生きている今、厳しい禁欲を実践し、断食をすることによって、より神に仕える者、神に喜ばれる者になれると教えたのです。

 ユダヤ教の教えを大事にしてきたキリスト者の中には、祭日の宗教行事や安息日の遵守は、神の恵みである律法への従順を現し、神に選ばれた民である自分達が大切に守るべきものとする人達もいました。パウロはそれらを否定し、すべきでないと言うのではありません。自分達の信仰理解に基づいて、暦や祭日などを守らない人々を批判し、主が人々に与えている自由を侵害しないようにと警告したのです。それらが神が与えた律法に示されていても、それを守ることが絶対条件なのではないからです。第一とすべき大切な事は、自分達が教会のかしらであるキリストにしっかりと結び付いていることです。それだけでなく、この教会の人々が「つかむな、味わうな、さわるな」といった様々な定めに縛られていたら、彼らに、神ならぬものに頼り、惹かれる思いを断ち切らせる為に、主が十字架の死によって彼らを神の子とし、主が支配する世界に生かしているのに、その主の愛を無駄にすることになります。ですから、人の思いから出たものかどうか吟味しなさいと警告するのです。

 パウロがこのように信仰者であることの基準を教えるのは、異邦人社会に新たに多くの教会が誕生するにつれて、ユダヤ人とギリシア・ローマ人の違いだけでなく、様々な文化の中に生きる人々が救われることで、信仰者の生き方が多様化したからです、その人の信仰が正しい信仰が、偽りの信仰かを吟味、判断し、一致した信仰告白に立つ教会にならなければ、教会が分裂する危機に直面しかねなかったからです。と言うのは、自分達の信仰の方が、より正しい信仰で、世の人々が受け入れ易いので、教会がこの世から浮き上がらず、理解され易くなると主張し、教会が誤った方向に進む危険があったのです。しかしこのような問題は、現在の私達にも生じる可能性があります。教会も人の集まりである以上、育った環境の違いで、父なる神、子なる神である主イエス・キリスト、聖霊なる神についての理解や信仰の現し方、この世での信仰者としての生き方等についても違いが生じることがあるからです。

 この教会では、それぞれが自分の正しさを固持しようとして、正しさのぶつかり合いになることがあったようです。それぞれの信仰は自分達にとっては正しいので、それを保持しようとするからです。それでは教会がキリストの体として成長出来なくなります。ですから、そうなる原因は何かを知り、問題に正しく対処しなければならないとパウロは教えます。自分達が守り、他の人に同調するよう求めているのは、どんなに自分に正しく見えても、来たるべき本体であるキリストの影に過ぎないと知りなさい、と彼は言います。

 確かに、私達は主イエス・キリストと霊的に出会っています。イエスが十字架に掛かって死に、霊の体に復活し、今も一人一人の内に共にいるからです。これは事実です。だから、私達はキリスト者として世に生きています。しかし私達は、主イエスを自分の目で見ることも声を聞くことも触れることも出来ません。ですから想像し、心に思い描き、それに固執してしまいます。パウロはそれを「自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによって舞い上がって」いるだけと言います。私達も本体であるキリストに、霊的にしっかりと結び付いていないと、肉の思いという自分の思いに従い、御旨と混同してしまうことがあります。それが主とは無関係なのに信仰的行為と思い込んで、それを認めない人々を断罪したり、「それは違います」と主張し兼ねないのです。

 ですから先ず「かしら」であるキリストに、自分をしっかりと結び付けましょう。人である自分達の力では無理ですが、祈り求めつつ主に願えば、聖霊が私達を助けてくれます。私達は主イエス・キリストが万物の主として支配する世界、「神にはどんなことでもできる」世界に生きているからです。聖霊は個性の違う私達一人一人をよく知り、支え導き、私達の心と思いを繋ぎ合わせます。そして私達の教会を、神に育てられて成長する群れとします。その為に、私達は主と共に古い自分が死に、主と共に新しい人として生きていると自覚しましょう。そうすると、自分や他人の言動が信仰的に思えても、それが見せかけの自分の思いを満足させるだけのものに過ぎない場合、偽りだと気付けます。パウロがUコリント4:18で「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的(過ぎ去るもの)であり、見えないものは永遠に続くから」と言うように、見えるものに囚われずに、見えない主に目を留めて、聖霊によりしっかりと繋ぎ合わされて、見えない主と共に生きるなら、一つのキリストの体の教会となって成長出来ます。