メッセージ(大谷孝志師)
召天者は永遠に生きる
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年2月26日
Tコリント15:42-49「召天者は永遠に生きる」

 人は誰でもかなら必ず死にます。キリスト教では死を召天、或いは永眠と呼びます。永眠は永遠の眠りに就くことです。でも永続なのではありません。主を信じて死んだ人は永遠に主と共にいます。しかしこの世に生きる私達にはその姿は見えません。ですからそれを、眠っていると表現しているのです。

 召天は、今日の聖書にあるように、世の終わりの日に、主ご自身が天から下って来て、主を信じて死んだ人々が互いに見える姿の霊の体によみがえります。それから、その時生き残ってる主を信じる者達が、やはりそれ迄の朽ちる肉の体から、朽ちない霊の体に変えられ、彼らと一緒に天に引き上げられ、そこで主と共にいることになります。ですからそれを召天と表現します。

 しかし聖書は、肉体が死んだ人が直後に天に上るのか、眠ったままなのかは書いてありません。自分が死ねば分かる事なので、どちらにしても、肉体は有限でも、この世で肉体として生きていても、主イエスを信じて救われ、永遠の命を戴いているので、滅びることなく、と信じれば良いのです。パウロはその事について人は「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされる」と言います。私達は、土で造られた人として生きています。と言っても、粘土で作られているのではありません。今の世に存在する他の生物と同様に、物質で造られているという意味です。物質ですから経年劣化により、あるいは病気、事故等でいつか必ず終わりを迎え、この肉体は消滅します。しかし、土で造られた人が肉体という形を持っていたように、肉体の死後は、天に属する方、最後のアダムである復活した主イエス・キリストが、霊の体で弟子達に現れ、その姿を見て、彼らが喜んだように、私達も肉体の死後、目に見える形である霊の体に復活するとパウロは教えています。

 しかし、霊の体に復活すると言われても、死後の事は私達は想像するしかなく、正直確信が持てず、不安になります。ですから、パウロは霊の体で復活した主イエスを例にして教えます。主イエスはこの世で人として肉体で生きていました。ですから、同時に二箇所に存在したとは聖書に書かれていません。主も物理的制約を受けていたからです。私達も世の終わりが来る迄、この世に物理的制約を受けて生きています。しかし今、全ての人が主の助けを必要として求めています。その全ての人いつどこにいても助けを得られるようにと、主イエスは霊の体に甦り、常に全ての人の助け主、救い主として共にいるのです。ですから今どのような悲しみ、苦しみ、不安や恐れの中にいても、主を信じれば人は救われ、主の臨在を感じ取り、生き生きと生きられます。主が霊の体で復活したからこそ、私達はそのように生きられます。そして死後も、黙示録14:13に、天からの声が言う「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いです。」と。御霊も言われる「しかり、その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことが出来る」とあるように、召天者には、そのような肉体の死後の霊の体での新しい人生が備えられていると信じましょう。
 私達は年に一度、召天者記念礼拝を持ちます。最初に言いましたように、主を信じて死んだ人々は。、復活の主イエスと同様、私達の目に見えません。しかし主と同様に永遠に生きていると信じています。ですから決して過去の人では有りません。今も主に永遠の命を戴き、生きているからです。

 私達もいつか、自分の為に主が定めた日が来ると、肉体は滅び、霊の体となって天、つまり主がいる所に主に召されて行きます。ですから主を信じて亡くなった方々を召天者と呼び、私達も死後そう呼ばれることになります。

 さて、召天者記念礼拝は召天者を礼拝するのではありません。故人を天に召し、いつか私達も天に召され、見える姿で永遠に共にいると知る主を礼拝しているのです。召天者は死という未知の状態になる恐怖、聖書が告げる、罪を犯し罪有る者とされ、永遠の滅びに落とされる将来への恐怖から解放されています。その時召天した人々は「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべき者が死なないものを着る」ことになります。神が御子イエス・キリストの十字架の死により、勝利し、死が無力になり、私達はもはや、死を恐れる必要が無くなっています。しかし現実には、私達が罪と死が支配するこの世に生きています。ですから不安や恐れに惑わされる時があります。 しかし聖書は、世に生きる私達にとってそれは未来の事ではないと教えます。と言うのは、未来とはまだ来ていない事であり、来るかどうかが分からない事なのです。新改訳聖書は「与えて下さいました」と訳していますし、新共同訳聖書は「勝利を賜る神に」と訳しています。原語は現在形でも文法上は未来だか、来るかどうか分からない事でなく、将に必ず来ると神が定めている将来の事であり、神が既に決定した事だと聖書は教えているからです。

 パウロは、主イエス・キリストを信じれば死が勝利に飲み込まれたので、滅びることなく、人生の勝利者となれると教えています。勝利を確信できるなら、主イエスを信じる者は確固たる人生を歩めるのです。ですから彼は、主を信じてこの世に生きる私達に「堅く立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい」と教えています。勿論、復活の主イエスが目には見えないけれど、共にいて、召天した人達がかつて世に来ていた時にそうであったように、今この世に生きている私達を助け導いていてくれるからです。

 黙示録に「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである」とあったように、主を信じるなら、死後も、そして今から後とあるように、生きている私達も幸いなのです。それにしても、なぜ私達は主イエスを信じて、救われ、幸いな者として生きていられるのでしょうか。それはUペテロ3:9に有るように、主が一人も滅びることなく、全ての人が悔い改めて、主イエスを信じて救われ、永遠の命を得ることを望んでいたからです。主イエスがその為に十字架に掛かって死に、その道を開いたからです。そして、救われた者だからこそ、私達は主に天に召された人々が、主と共に今、幸いに生きていることを確信でき、その主に感謝して召天者記念礼拝をしているのです。でも、この子とを喜ぶだけでよいのでしょうか。このようにして、永遠に生きられる幸いを知る私達には、大切な使命が与えられていると、パウロは教えています。今日の聖書の後の58節にあるように、一人でも多くの人がこの幸いな人生を生きられるよう、主の業に励み、福音を伝える使命が与えられているからです。彼は言います。「堅く立って、動かされることなく、いつも主の技に励みなさい。あなたがたは、自分達の労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」確かに伝道には労苦は付き物です、でもこの労苦は決して無駄に終わりません。復活の主イエスが「昨日も今日も、永遠に変わることなく」、召天者の方々と共にいたように、私達とも常に、そして共にいるからです。