メッセージ(大谷孝志師)
喜んで主にすがろう
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年2月26日
ガラテヤ5:2-6「喜んで主にすがろう」 牧師 大谷 孝志

  私達はイエス・キリストを自分の主と信じ、主がここにいるから礼拝している。でも、どんな思いで礼拝しているか。主にすがり付くしかない、どうしようもない自分を感じて礼拝しているだろうか。聖書には様々な勧めがある。聖書を読んでいて、罪に陥らないよう、罪を犯し続けないようにを何度も目にすると、何となく滅入って、主を信じていることが喜びより重荷になってしまうことがある。だからこそ聖書は、自分がそんな者である認め、主にすがり付けば良いと教える。

 主イエスの十字架の死により、全ての人の為の救いの業は完成している。だから、私達は神の子とされ、主が全てを支配する世界に生き、恵みと平安を戴いている。しかし、この世に肉の体で生きている限り、私達は肉の思いを優先させてしまう罪人のまま。どうしても罪を犯してしまうこの自分が情けなくなり、こんな自分は将来、そして死後どうなるのかと不安になることも。しかし主は言う。「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と。パウロも「恐れおののいて自分の救いの達成するよう努めなさい」と言う。主に相応しい者で在り続ける為には、自分の努力が必要と分かってるから、余計に、できない自分を思って、悲しくなる。

 しかしそのように考え込み、不安に陥るのは、実は主イエスから自分の心が離れてしまっているから。トンネルを掘っていて、どうして暗いんだろう、なぜ光が見えないのかと悩んでいるのと同じ。そんな馬鹿げたことはと思うかもしれないが、主イエスを信じていても、人間である以上それをしてしまっている。だからそれに気付き、目を挙げて主を見上げ、その主にすがることが大切と知ろう。

 私は若い頃に「日本のキリスト者は頭でっかちだ」という言葉をよく聞いた。「見ないで信じる」これが信仰なのに、私もそうだが、頭の中で考えるだけで結論を出そうとしたり、目に見えるものが全てと思い、それに頼ろうとしてしまうのだ。

 ガラテヤの諸教会の人々も、そんな気持ちから、目に見える「割礼」というイスラエル、神の民のしるしにすがろうとしたのではないか。パウロも主イエスを信じるまでは、律法を守ることによって自分が救われると信じていた。そして、主を信じれば救われるという福音を、信じ伝える人々を激しく迫害した。しかし、十字架に掛かって死んだ筈のイエスが、今も生きているとその復活の主イエスに知らされ、見事に自分という者をひっくり返されてしまった。律法は自分の意思と力で神に喜ばれようとするので、それでは人々を救い、ご自分の民としようとしている御旨を拒否したことになり、神の恵みから落ちてしまうと知らされた。

 彼は主にすがれば良いと気付かされた。人は誰も、社会の中で何かに、或いは誰かにすがって生きている。子は親に、親は社会に、更に、人は誰も自然の恵みにすがって生きている。でも、人も物も永遠ではない、いつか消え、壊れて無くなる。しかし「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わらない」とヘブル13:8にあるように、主イエスは永遠にいる方。私達にはすがりつけるその主がいる。そして主にすがる心に本当の安心が生じる。主はすがりつく私達に愛を注いでくれるから。そしてその愛を知る時、私達は自分の弱さから自由になれる。自分にはどうしようもない罪、肉の思い、「人の事より自分の事」の思いに縛られ、雁字搦めになる人生ではなく、主によって新しくされた自分として希望をもって生きられる。今は受難節。主は私達を押し潰す為ではなく、現在と将来に自由と喜びをもって生きられるよう十字架に掛かって死んだ。心から感謝しよう。