メッセージ(大谷孝志師)
ただ事実のみを見よう
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年3月5日
マルコ3:1-6「ただ事実のみを見よう」 牧師 大谷 孝志

 主イエスが安息日に礼拝の為に会堂に入ると、そこに片手の萎えた人がいた。そこにいた人々は、一週間前の安息日に、自分達が安息日にはしてはいけないと思っていた事を、主の弟子達がし、主が旧約聖書に書かれているダビデの事を引き合いに出して弟子達の行為を正当化した。例外的行為を他の全ての行為に適用したら、何をしても神に良しとされることになる。神が自分達に神の民である基準を示した律法を守る必要が無いとイエスが教えたら、神を冒涜したとして、訴えられると考え、イエスが彼をいやすかどうかどうかをじっと見ていた。すると主は、その人に真ん中に立て、と言う。主がする事をはっきりと彼らに見せつける為。

 人々はなぜイエスを訴えようと思ったのか。イエスの律法について自由な考えを危険視していたから。主に力が無ければあの変わり者が好き勝手なことを言ってるなくらいで済ませられた。しかしイエスの力は無視できないほど強力だった。2章で主は、中風の人に「あなたの罪は赦された」と言った。その場にいたパリサイ人達が「この人は神を冒涜している。神の他に誰も罪を赦せない」心の中で呟いているのを見抜き、「起き上がって、床を担いで家に帰れ」と言い、彼は床を担いで出て行った。彼らがこれは守らなければ神に喜ばれない、滅ぼされると考えている事を悉く破り、正当性を主張するから、放置出来ないと危機感を抱いた。

 彼らと主イエスでは律法についての考え方が違った。神に喜ばれるには御心と示された事を行えば良い。彼らは、その為には律法を厳格に守れば良いと考え、主は、その人自身がこれは神に喜ばれると思う事をすれば良い、と考えている。主は律法は、人が神に喜ばれ、幸せに生きる為に神が与えたという事実のみを見。パリサイ人達それが律法の原点なのに、それを忘れ、人よりも律法を優先させた。

 だから主は「安息日に律法に叶っているのは、善を行う事か、悪を行う事か。命を救う事か。殺す事か」と怒って彼らを見回し、その心の頑なさを悲しんだ。恐らくこの人は、自分の片手が萎えていることに引け目を感じ会堂の隅に人目を避けていた。彼に真ん中に立ちなさいと言ったのも、怒り悲しんだのも、安息日についての自分達の主義主張の正当性を示す為に彼の障がいを使おうとしたから。

 神はこの人が神を褒め称えて幸せに生きることを神は喜ぶと思い、それを求めるのが安息日に最も相応しいのに、安息日を何と心得ているのかと彼らを叱った。

 主は「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国には入れません」とマタイ5:20で言った。彼らは、安息日は主の安息なので、あなたはいかなる仕事もしてはならない、という戒めが命じる仕事の範囲を一生懸命に考え、決めてはいた。しかしそれが「木を見て森を見ず」になり、神の為でなく、自分が正しいと思う事だけになっていた。

 しかし主は今の私達を見て、嘆き悲しんではいないか。今は受難節。主の十字架の死を心に刻み、自分がどうすれば神が喜ぶかを真剣に考える時。主は、私達の罪の為に十字架に掛かって死に、復活して、私達が永遠の命を得、神の子となる資格を与えた。主は私達に、私に従いたいと願うなら「自分を捨て、自分の十字架を負って私に従え」と言う。私達がパリサイ人の状況にも達せず、この世の事、自分の思いに囚われていないかと静かに自省しよう。主は私達を、私達の心の内をしっかりと見抜き、私達の信仰が無くならないように祈っていると知ろう。主が、私達が主の証人となり、人々の幸せの為に生きる者となるよう願っている。