メッセージ(大谷孝志師)
私達は新しい人になれる
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年3月12日
コロサイ3:5-11「私達は新しい人になれる」

 今は受難節、主イエス・キリストの十字架の死の苦しみを心に刻む時です。主は、何の為に十字架に懸かって死んだのでしょうか。主を信じる者が救われ、永遠の命を持つ者となる為です。受難節が終わると、私達はイースター礼拝ヲ守ります。主の復活を感謝し礼拝します。主は十字架に掛かって死んだままなのではありません。復活して神の右の座に着いているからです。しかし私達は今、人としてこの世に生きています。主イエスを信じて救われていて、恵みと平安を味わってはいるのですが、この喜びを家族や他の人達に伝えたいと思っても、知恵も力も無い自分を身に染みて感じる日々を過ごしています。パウロは、人間の戒めや教えに確かさを求めないで、神の右の座にいるキリストの内に隠されている知恵と知識の宝を求めなさいと教えます。どうしたらそんな事が出来るのでしょうか。とても無理と思ってしまいます。

 パウロは、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのならと言います。よみがえるということは死んだことが前提です。自分が死んでよみがえったと認めること、そこに私達が福音を伝える者になれる秘訣があります。私達は肉の体で生きているので、自分が死んでいるとはとても思えません。霊的に物事を考えましょう。Uコリント4:18に「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます」とあります。この見えないものは、主の事だけではありません。私達が霊的に既に死んだ者であるという事実です。

 パウロはここで、私達に命とは何かと考えさせているのです。人は世に生きる中で、絵が命とか。仕事に命を懸けているとか言います。人はそのように、様々なものに人生の目的と生き甲斐を見出しています。私達にとっては、イエス・キリストこそが人生の目的であり、生き甲斐になることが大切です。ですから彼は「あなたがたの命であるキリスト」と教えます。私達は自分の命と自分は決して切り離せません。自分が主を信じているなら、主であるキリストが私の内に生き、私と一つになって私を生かしていると知りましょう。

 この霊的事実は、キリストが現れる時、それが私達の目に明らかになります。それが世の終わりの時の再臨の時に起きるからです。私達は主を信じて救われると新しい人になります。でも、その時「古い自分は死ぬ」のですが、肉の命はそのままなのです。生まれながら罪人の私達は、滅ぶべき肉体のままで今生きています。では、与えられている永遠の命はどうなっているのでしょう。世の終わりが来る迄は、やはり目に見えないが共にいるキリストと共に、神の内に隠されているとパウロは教えます。ですから、私達が自分のどこを探しても永遠の命を見出せません。しかし世の終わり、キリスト再臨の時に、私達は朽ちる体から朽ちない体に変えられます。キリストと共に天に挙げられます。召天します。その時、神の内に隠されていた私達の永遠の命が現れ、霊の体となった私達と一つになり、私達は内外共に新しい人となります。その時私達は、自分が栄光に輝く霊の体に変えられたことを実感できます。その日がいつ来るか分かりませんが、黙示録22:20で「わたしはすぐに来る」と神の右に座す主イエス・キリストが宣言しています。ですから、その栄光に満ちたその時の事を思い、この肉体で生きている今、この世の物事に引きずられること無く、約束を信じ、希望を失わずに生きていましょう。

 パウロはこのように栄光に満ちた将来が私達にはあるのだから、この世に生き、救われている私達は、誰も滅びることなく、全ての人が悔い改めに進むよう人々に福音を宣べ伝えられるのだから、確信をもって主の僕として生きなさいと教えます。とは言え、私達が将来神と共に生きることの証拠のしるしである永遠の命が、世の終わりの日が来る迄は。キリスト共に神の内に隠されたままです。ですから今は、悪が支配しているこの世で、悪の誘惑に自分達が立ち向かわなければならないのです。彼はその私達に、悪の力に負けて、神の怒りが下るようなことをするなと言います。厳しい言葉に聞こえますが、彼は私達に努力を求めているのではありません。確かに「これをせよ」とは言います。でも、それをすることが御心だからです。私達がそうすることを神が望み、聖霊が私達に臨む時、私達は主の証人となれるからです。

 ですからパウロは私達に、御心に従順になれと言います。不従順になると神の怒りが下るからです。確かに以前の私達は、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるかを見分けられませんでした。今も、肉の体で世に生きている限り、悪の誘惑に打ち勝つ知恵も力も無いというのが現実です。だから先ず、肉の体の自分がしてしまう淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、貪欲を殺しなさいと命じます。勿論、自分の力ではそれらを排除できなません。ここで彼が「しかし今は」と言います。これが重要です。私達は新しい時に生きているのです。ですから「これらすべてを捨てなさい」と言います。彼は無理難題を押し付けているのではありません。私達にも、心の向きを変えさえすれば出来ます。だからそう命じます。続いて彼は「互いに偽りを言ってはいけない」と命じます。「互いに」はキリストの体である教会の部分部分である私達を指しています。教会の交わりの中で、互いに「相手は神によって生まれた新しい人ではない、主イエス・キリストを受け入れ、キリストにあって歩んでいない」と偽りを言わずに、真実を認め合いなさいということです。

 このように、自分達が新しい人を着た事実を互いに認め合うことが大切なのです。私達の永遠の命がキリストと共に神の内に隠されているので、端から見れば、世の人もキリスト者も区別が付きません。しかしパウロは、ローマ8:20で「御霊も、弱い私達を助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったら良いか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです」と言います。御霊が助けてくれるので、御心を知り、真実を見極められるのです。ですから、私達は互いに、造られた方である神のかたちに従って、日々新しくされ続けると相手と自分を見ることができます。そして、何事も神が御心により、何が良い事で、神に喜ばれ、完全であるかを知る真の知識を得た新しい人に、私達はなれます。
 天地創造の時、神は「人をわれわれのかたちとして。われわれの似姿に造ろう(創世記1:25)」と言いました。私達は、その神の創造目的通りの人になれるのです。聖書の一つ一つの言葉は真実を伝えていると信じましょう。それらは、主の十字架と復活の理由と目的、神の救いの計画を表しています。

 最後に神の右の座にいる十字架と復活の主が、全ての人の内にいるとパウロは言います。「右の座」は力の象徴を示す言葉です。主は全てを支配する力ある方として私達一人一人の内にいるのです。私達はその主に心を向けて、目に見えないその主が自分と共にいると信じて生きれば良いと彼は教えます。