メッセージ(大谷孝志師)
真理を伝える難しさ
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年3月19日
ヨハネ6:41-51「真理を伝える難しさ」

 この個所のユダヤ人達は、主が病人を癒す奇跡を見て付いて来て、その主が、五つのパンと二匹の魚で五千人もの自分達を満腹させた奇跡を体験した人々です。主の偉大な力に驚愕した彼らは、翌日、主と弟子達がいないことに気付くと、主を捜しにカペナウムに来て、主を見つけました。そこで、主が「わたしは天から下って来たパン」と言ったのを聞いた彼らは、自分達はイエスがヨセフの子で母も知っているのに、おかしいと文句を言い始めたのです。主はその彼らに、自分は、神があなたがたに永遠の命を与える為に、天から下って来た「いのちのパン」と言います。主は、彼らがまだ知らない真理、真実を知らせたのです。でも彼らには主の言っている事の意味が分かりませんでした。勿論、嘘だとは思わなかったでしょうが、余りに想像を超えた事なので、彼らは反論できず、ブツブツ文句を言うしかなかったのです。

 私は彼らの反応を通して、福音を、私達が知る真理、真実を伝える難しさを考えさせられました。私達は主イエスが救い主と信じてキリスト者となり、恵みと平安を戴き、それを日々の生活の中で実感し、喜んで生きています。私達にとっては、それが真理であり、真実です。でも、私自身はそれを世の人にそのまま告げているかと考えさせられたのです。私も教会に友人や知人を誘いはしましたが、主を信じ、福音に生きる自分をどれだけ証したかと考えると、証していなかったと反省させられています。この人に何を言っても分からないだろう思い、それよりも、教会というキリスト者がいる所に来て、主イエスを信じることがどんな事かを知って貰うことが先と考えていたのです。とは言え、教会に誘っても、体よく断られるのが殆どでした。ある人は、あなたは信じているだろうが、自分には信じられない、無理だと言いました。

 しかし、今日の個所で主は、人々がどう思い、どう文句を言い、反論しようとも、真理を語り続けています。そして46節で、「父(つまり神)を見た者はだれもいません。ただ神から出た者だけが、父を見たのです」と言います。これは特にユダヤ人には驚くべき事、想像も出来ないことでした。でも、主イエスにとっては真実なのです。だからそう言ったのです。私達は、自分が信じている主イエスは、今も生きて、私と共にいると世の人々に言えるでしょうか。その人々も、昔、イエスが十字架に掛かって死んだことは否定しないと思います。でも、イエスが復活して今も生きているとは、世の人間は誰も信じていないし、それが常識だと反論してきます。

 ですから私達は「主イエスは目に見えないけれど確かに私と共にいる」と伝えたいと思っても、難しさが頭をよぎり、伝えるのを諦めているのではないでしょうか。私自身がそうだったと反省しています。しかし聖書は、主イエスが大胆にと言うか、真っ直ぐに真理、真実を告げたと教えます。聖霊は私達に「主イエスを信じるなら、主がいつも共にいると信じなさい」と語り掛けています。その御声に耳を傾けましょう。主イエスは私達に諦めずにして欲しいと願っています。

 さて、主は更に彼らに「信じる者は永遠の命を持っている」と言います。私達は教会に来て欲しいと思う人に、「主イエスを信じると、全く新しい生き方が出来、日々感謝して生きられる」と言っているでしょうか。主は私達に手本を見せています。私達と相手の人生が変わることを願っているからです。

 ユダヤ人達はイエスが「わたしが与えるパンは、世の命の為の,私の肉です」と真理、真実を告げると「この人は、どうやって自分の肉を、私達に与えて食べさせられるのか」と互いに激しい議論を始めました。主は真実を語ったのですが、自分達の常識を遙かに超えた事なので、理解できないのです。すると主は、はっきりと「私の肉を食べ、私の血を飲めば、自分の内に永遠の命を持ち、しなけれ命はない」と言います。更に、「私の肉を食べ、私の血を飲む物は、永遠の命を持っていいます。私は終わりの日にその人をよみがえらせます。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物なのです」と付け加えます。主は、私の肉を食べ、私の血を飲む者は永遠の生きると彼らに語り掛け続けます。彼らにしても、主が五千人供食の時の少年が持参したようなパンのことを言っているのではないと分かっていたとは思います。

 でも、イエスに私の肉を食べ、私の血を飲むと言われれば、不気味というか、奇異な思いしか持てなかったのは当然の事でした。ですから、ユダヤ人達だけでなく、主に従って来た弟子達の内の多くの者が「これは酷い話しだ。誰が聞いていられるだろうか」と言って離れ、イエスと共に歩もうとしなくなった」と66節に書かれています。主は人の心の内を知る方ですから、弟子達の反応を当然分かっていたと思います。

 しかし彼らがどう捉えようとも、それが真理であり、彼らがそれを信じて受け入れることが全ての人々の為だから、主は語り掛け続けたのです。私達は語り掛け続けられるでしょうか。
 主イエスがこれ程までに「私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物です。私の肉を食べ、私の血を飲む物は、私の内に留まり、私もその人の内に留まります」と教え続けるのはなぜでしょう。神が全ての人を主イエスの十字架の死と復活によって救うことが御心だからです。主イエスが十字架に掛かって死に、霊の体で復活することにより、全ての人の主として、主を信じる者の内に留まり、その人は永遠に神と共に生きる者となれます。今は誰も理解できず、信じられなくても、復活の主と出会うなら、神の愛を理解でき、主イエスを信じ、自分が変えられることにより、新しい人として、新しい人生を歩めるようになるのです。

 この時、弟子となって従って来た人々を含めユダヤ人達がその事を理解できなかったように、私達も周囲の人達に福音を伝える時、同じ経験をしています。主イエスを信じ、主と共に生きることによって、自分が変わった、物事に前向きに希望を持って対処できるようになったと自分の経験を話しても、到底信じて貰えません。それは私達の思い込みとしか受け取って貰えないでしょう。でも、それを語っていかなければ、その人の為に主が十字架に掛かって死んだ意味がなくなります。

 聖餐を思い起こしましょう。主は「生ける父が私を遣わし、私が父によって生きているように、私を食べる者も、私によって生きる」と言いました。この「私」は、主イエスのことであって、主イエスのことではありません。聖餐式のパンは、私達が祈りをもってそれを戴く時、神の力が働き、私達は聖なる命に与るのです。世の物質のパンが永遠の命を携えた主キリストとして私達の体に入り、心を強め、新しくし、私達は人のままで永遠に生きる者となるのです。世の人は理解できないでしょうが、驚くべき真実が聖餐を戴く私達に起きているのです。全ての人に与えられるこの恵みがこそが、どんなに困難でも私達が伝えるべき福音であり、真実であり真理なのです。