メッセージ(大谷孝志師)
自分の言葉が相手に届く為に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年3月19日
ルカ6:46-49「自分の言葉が相手に届く為に」 牧師 大谷 孝志

 人は誰も、自分一人でなく、他人と関わりながら生きている。だから、必然的に、人に、プラス、或いはマイナスの影響を与えたり、自分が受けることは避けられない。更に、他人に対して何らかの役割を与えられたり、何らかの働き掛けをしている。たとえ引き籠もり状態になったとしても、誰かの助けがなければ生きていけない。しかし、他人の為に自分が役割を持っていることは、自分に大きな意味を持つ。有る意味それが生き甲斐にもなる。自分が生きているのだと実感する理由になるから。逆に集団の中の孤独を味わい、自分には生きる意味が無いと思われる時ほど辛いことはない。人に何らかの働き掛けをした時、相手の受け取り方は様々になる。期待通りの反応ではなかったり、自分の言ったことを聞いてくれないと、面白くなかったり、不愉快になる。自分が必要だと思い、何度言っても分からない人に対して、それが病気だ、障がいだ、それが彼女なのだ、彼なのだ、そのまま受け入れなければ、それが自分の使命であり、役割だと分かっていても、我慢している心の状態が続く限り、ストレスが貯まってしまう。それを溜めないようにしないと心と体の健康に大きな影響を当てることに成り兼ねない。

 主イエスは、私達人間とは違い神であり人である方。そして人としてこの世に生きた方。だから福音書を読むと、主は笑ったという記事はないが、泣いたり、憤ったり、叱ったりと、感情を露わにすることもあった。人を相手にするので、人との関わりの中で、私達と同じ様な苦労をされたようだ。主は「なぜあなたがたは、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか」言う。口では「主よ、主よ」と言いながら、み言葉とは無関係な日々の生活をしている人が周囲にもかなりいたから。主は人々に、口先だけの信仰ではなく、み言葉という土台の上にしっかりと立った信仰生活を勧めた。人々の無理解、反発に会いながら、ストレスが堪った印象を受けない。それは主が自分と父が一つである自覚していたから。そしていつも父と対話をし、祈りを欠かさず、父から聞いた事、人々にとって必要な事を教えていたから。父が必ず彼らが分かるようにするとの父の彼らへの御心を知り、人々の身になって物事を考えていたから。

 しかし、私達はそこまで相手の身になって物事を考えられないのが現実では。相手に教えたり、忠告したくなる場合があるが、私達人間は主が「兄弟の目にある塵は見えるのに、なぜ自分自身の目にある梁には気が付かないのですか」と言うように、自分の欠点は小さく、相手の欠点は大きく見えてしまう。自分では良いと思っても、相手には大きなお節介の場合すらある。自分の言葉が相手に届くにはどうしたら良いのか。主が「良い人は、その心の良い倉から良いものを出し、悪い人は、悪い倉から悪いものを出します。人の口は、心に満ちていることを話す」と言うように、先ず自分の心の倉に、良いものを溢れるばかりに蓄えていることが大切。心に有るものが出て、無いものは出てこないと自分自身を認めよう。

 その私達に主は「わたしのもとに来て、私の言葉を聞き、それを行う人」になれと教える。主が自分の心の内にいると自覚し、主のみ言葉を心で聞き、心に蓄え、そのみ言葉に日々養われよう。心の倉に良いものが蓄えられていると、自分の言葉が相手の心に届く。主のように、自分の為ではなく、相手の為に生きられるから。主は言う。「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深くなりなさい」。相手の身になって生きよう。自分の言葉が相手に届くから。