メッセージ(大谷孝志師)
主の弟子となる為に
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年3月26日
マルコ10:32-45「主の弟子となる為に」

 主イエスが十字架の死が待つエルサレムに向かう途上で、主が弟子達に先に立って歩き始めました。すると弟子達は驚き、付いて行く人々は恐れを覚えたと聖書は記します。私達は十字架への道を歩む主の姿を、昔の事として想像することしかできません。しかし、弟子達を始め主について行く人々は自分達の目で見ています。彼らは今迄とは違うものを感じ取ったのでしょう。

 23節で主は、永遠の命を受け継ぐ為には何をしたら良いかと尋ねた人に、自分の持ち物を全て売り払い、貧しい人達に与え、その上で、私に従って来なさい」と言いました。すると彼は、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。主は弟子達に「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう」と言います。その言葉を聞いて彼らは驚きました。と言うのは、ユダヤ人にとって、富は神の祝福であり、富を持つ者=神の国に入る者と弟子達も考えていたからです。主が更に「金持ちが神の国に入るよりは、駱駝が針の穴を通る方が易しい」と、その困難さを強調すると、彼らは更に驚き、「誰が救われるだろうか」と互いに言い合います。すると主は「人には出来ないが、神は違います。神にはどんな事でも出来るのです」と教えました。

 するとペテロが「私達は全てを捨ててあなたに従って来ました」と言い出します。納得できない思いがこの言葉には込められています。ですからマタイは、この後に「それで、私達は何を頂けるでしょうか」を付け加え、彼らの本音を露わにしています。主は、彼らが全てを捨てて従って来ていることの重さはよく知っています。ペテロの思いに応えて、彼らは神に祝福され、この世で豊かなものを与えられ、来たるべき世で永遠の命を受けると言います。しかし聖書は、弟子達が主に従っているのが、自分達の為であることに大きな問題が有ると、ヤコブとヨハネの要求を記すことで明らかにします。

 でも私達はどうでしょうか。先ず第一に、私達は主を信じています。でも、主に従っているでしょうか。確かにマタイ19:27でペテロは「何を頂けるか」と聞きましたが、彼らは全てを捨てて従って来ているのです。だから「それで」と言ったのです。私達は礼拝、或いは集会の時に、日常生活の場を離れて教会に来ています。でも教会にいても、この世での自分生活を引きずったままでいないでしょうか。主との霊的交わりの時を持っていても、家のこと、帰ってからのことが頭をよぎることが、いやそれ以上に心を占めてしまうことはないでしょうか。主が弟子達に「私に従いなさい」と言ったのは、自分中心のこの世の生活から、神中心の主との生活に変えさせる為です。彼らのこれ迄の価値観、世界観を変えさせる為です。でもペテロの言葉が表しているように、それには大きな闘いが必要です。ですから、主は彼らの為、全ての人の為に、十字架の死が待つエルサレムに向かっているのです。だから主は眦を決して先頭に立ち、彼らは驚き、恐れすら感じたのでしょう。

 そして主はペテロ達を傍に呼び、自分が捕らえられ、嘲弄され、殺されるが、よみがえると教えます。弟子達の本音と無理解を明らかにする為です。十字架の死を前にしての主の三回目の受難告知が終わると、ヤコブとヨハネがイエスの所に来て、私達の願いを叶えてと言います。二人の願いは、主が栄光を受ける時、自分達の一人が主の右に、もう一人が左に座ることでした。弟子の中の最高位に就ける事を願ったのです。彼らは自分達を主に認めて貰い、他の十人に自分達が主に重視されていることを見せつけたかったのです。
 確かに二人は、舟の中で網を繕っていた時、主に呼ばれて、父ゼベダイを雇い人達と共に舟に残して、イエスの後に付いて行ったのです。自分を捨てて主に従ったのです。しかし、自分の内に捨て切れないものを抱えながら、主に従っていたのです。その点では、私達も同じなのではないでしょうか。
 主を信じることは、自分の心の問題ではありません。自分は主を信じていると思っていれば、それで良いというものではないのです。主を信じる者は新しい人になる、新しい人を着るとも言います。でもそれは、自分中心の生き方から、神中心の生き方に変わることなのです。外側が変わっていれば良い、人に、主を信じ、主に従っている人に見られれば良いのではありません。内側が変わること、内側が主によって全く新しくされる必要があるのです。

 二人が、自分が自分として生きる為には、主の弟子でいることだけで十分でした。しかしそれ以上に、他の弟子達に見える、自分を捨てている自分、主の為に全てを献げている自分を、主にも仲間の弟子達にも認めて欲しいと思ったのです。それが、自分が自分である為には必要だと思ったのです。しかし二人は、自分達が主に求めていることが、何を意味しているのかを分かっていなかったのです。主イエスの左右に座るということは、自分達が主と等しい者として神に認められることを意味するのです、主と同じ生き方、同じ経験をすることを意味します。私達も普段の生活の中で様々なものが与えられることを願います。しかしそれは天から降ってくるものではなく、自分の行い、努力の積み重ねの結果という終点に備えられているものなのです。

 主は二人に「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けらことができますか」と聞きました。主は「あなたがたは自分の周囲にいる救われていない人がいるのに気付いたら、その人に寄り添い、その人の重荷を自分の重荷として受け入れ、それを自分の十字架として負い、相手の救いの為に、自分の命を捨てられますか」と聞いたのです。「できる」と二人は答えました。使徒12:1,2に、「ヘロデ王」ヘロデ大王やバプテスマのヨハネを斬首したヘロデではなく、同じくユダヤのヘロデ・アグリッパ一世が、キリスト者達を苦しめようとして、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺したと書かれています。ヤコブはこの後、主が「わたしが飲む飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります」と主が言った通りに、殉教の死を遂げることになります。

 「しかし」と主は言います「私の右と左に座ることは私が許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです」と。二人が私に願っても、私が許す事ではなく、神が決める事なのですと言ったのです。しかし他の十人はこれを聞いて二人のことで腹を立てます。主のその前の言葉だけしか頭に入らず、主が二人の願い通りになると言ったと思い、彼らだけずるいと腹を立てたのです。十人も二人と同じことを考えていたからです。主は、競争心を丸出しにした十二人に、自分を捨てて私に従うとは、自分を低くして相手に仕え、相手が生きる為には自分の命をも投げ出すことと教えました。主を信じることは、主の弟子となることだと聖書は教えています。師である主と共に生きること、主のように生きること、主が人々に福音を伝え、神が人にとってどんな方であるかを示して生き生きることなのです。私達も福音を伝え、主が世の人にとってどんな方かを伝えましょう。先ず私達は、永遠の命を与える為に十字架に自分の命を捨てた主を見上げ、その姿を心に刻みましょう。その主の弟子となって、この世に生きる者になりましょう。