メッセージ(大谷孝志師)
恐るべき方を頼れば安心
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年3月26日
ルカ12:4-7「恐るべき方を頼れば安心」 牧師 大谷 孝志

 今日本では、クリスチャンへの迫害はない。しかし先日も話したが、ローマ帝国ではネロによる大迫害を始め、クリスチャンへの激しい迫害が度々行われた。使徒の働きにも多くの迫害が記されている。ペテロやパウロの伝道活動を妬み、阻止しようとしたユダヤ人による迫害。神の福音を宣べ伝え、自分達を偽善者呼ばわりをするイエスに対て、ユダヤ人、特にパリサイ人達が激しい敵意を抱いていた。主は福音を伝える為に派遣する弟子達に、福音宣教を阻止し、人々を信仰から引き離そうとする力に屈することなく、自分達が直面する事態に正しく対処する道をここで教えている。日本でも江戸時代には激しい迫害が行われた。遠浅の海に立てた柱に括り付けたり、或いは逆さ吊りにして耳に穴開け足り、井戸に放り込んだりして、ゆっくり苦しみを味わわせながら残酷に殺した。信仰を捨てないとこうなるぞという見せしめ効果を狙った。しかし、多くのクリスチャンは、死を喜んで受け入れ、天に召されていった。主の「わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。…殺した後で、ゲヘナ(地獄)に投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい」とのみ言葉を知り、その方を恐れ、信頼していたからです。だからその人々は殉教の死を恐れず、自分をご自分の友として受け入れて下っている主を見上げつつ、喜んで死んでいった。その喜びは死の時だけではない。どんな時も主を信じて生きていれば安心との思いが、日常生活を安心できるものとしていた。

 それと反対の生き方が、13節以下のある金持ちの譬え話に示されている。彼は、自分の畑が豊作だった。その収穫物が多すぎて、仕舞う場所がないのに気付いた彼は、古い倉を壊し、もっとお大きな倉を建てて、自分の穀物や財産を全てそこに仕舞った。彼がすっかり安心しきっている様子が19節に記されている。しかし、それでは安心できないと、主はこの譬え話で教えている。なぜ安心できないのか。その理由は、彼の言葉には多くの「私の」が使われていることにある。彼は、神を恐れるのではなく、衣食住の無い、財産の無い生活を恐れていた。彼は目に見える物に頼り、それらが有ることで先の保証を得たと思い、安心できると思った。

 神は彼に言う。「愚か者、お前のたましいは今夜取り去られる。お前の用意した物は、いったい誰のものになるのか」と。どんなに豊かな財産を持っていても、人はその財産で自分の命を保持できず、死ねばこの世での命は終わり、先は無い。だから主は「自分の為に蓄えても、神に対して富まない者はこの通り」と教える。

 主は、人は先の事を恐れず、必要と思うものが無いことを恐れず、神を恐れ、神が喜ぶ自分になることを目指して生きれば良いと教えている。そして、25節で「だれが心配したからと言って、少しでも自分の命を延ばすことができるか」と言う。人は誰も死の恐怖に縛られる弱さを持つ。そして物に頼ることで死の恐怖を拭い去ろうとし、それらを持つことで安心しようとする。しかしそれらを自分の物と考えると、無くなったらどうしようと不安になり恐ろしくなる。だから、自分の命も、持ち物も全ては主のもの、主が自分に与えたものと考えよう。無いものは主が必要ないから与えないし、無くなったものも必要ないから取り去ったと信じれば良い。今を、将来を安心できる。主が31節で教えるように、一切の所有権、決定権を持つ主が支配する世界である御国を求めよう。そうすれば、殉教者達のように、死を恐れず、神を第一とする人生を安心して今を生きられるから。