メッセージ(大谷孝志師)
人の願いを叶える主
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年4月2日
マルコ10:46-52「人の願いを叶える主」

 次週聖日はイースターです。今日の聖日を「しゅろの聖日」と呼びます。それは、マタイとマルコの福音書に、エルサレムに進む主イエスの為に、多くの人々が、自分達の上着を道に敷き、他の人々が葉の付いた枝を野から切ってきて、、木の枝を切って来て敷いたとあります。「しゅろの」と言うのは、ヨハネの福音書に「なつめ椰子の枝」とあるからですが、実はこの木はユダヤには分布していても、日本には自生していないので、これと似た棕櫚の木を当てて文語訳が棕櫚、口語訳聖書がしゅろと訳したので、プロテスタントの多くの教会がこの日を「しゅろの聖日」と呼んで礼拝をしています。

 今日の個所はその日、主がエリコを出て、20`程離れたエルサレムに向かう時の事です。その道端に、バルテマイという目の見えない物乞いが座っていました。彼はイエスがいると聞いて「ダビデの子イエス様、私を憐れんで下さい」と叫び始めたのです。先週の礼拝の聖書にあったように、弟子達と主に付いて来た人々は、エルサレムに上る途上にあった主イエスが、エルサレムに向かって、先に立っていくその姿にただならぬものを感じました。そして、弟子達は驚き、付いていく人達は恐れを覚える程だったのです。ですから主は、弟子達を傍に呼んで、三回目の受難告知をし、エルサレムに向かう意味と目的を教えました。しかし聖書は、それを聞いた十二弟子の中のヤコブとヨハネ、主と生活を共にしていた二人の願いと主の答えと、それらを聞いた他の十人の反応を通して、最も身近にいた十二弟子さえ、この時の主の心を理解していないことを明らかにしました。それは、私達も彼らと同じと気付かせる為なのです。私達を含め全ての人にとって、主イエスの十字架の死の意味と目的を知ることが大切であると共に非常に難しいからです。

 さて、人々が彼を黙らせようとしたのは、主の思いを忖度し、主の為にはそれが必要と思ったからです。しかし、人々の考えと主の考えいは違っていたのです。バルテマイは人々に押し止められたが、ますます叫び続けました。今の自分にとっ、主の憐れみが必要だったからです。でも彼の必死な叫びは、主の周囲にいた人々にとって、他人事に過ぎなかったのです。主と共にいて、主が多くの人を悩み、悲しみ、苦しみから解放し、その人の為に寄り添い、その人の必要に応える方と知っていた筈です。でもこの目の見えない物乞いの人を主と同じように受け入れ、自分達も主と同じようにすれば良いことに気付けませんでした。主は自分達と同じ思いだと思い込んでいたからです。

 私達はどうでしょうか。周囲の人の中に、必死に主の憐れみを求めて叫ぶ人がいたら、私達もその人の思いを受け止め、必死にその人の為に主に祈ると思います。しかし酒に酔った人、生活に困窮している人がお金を求めて来た時、その求めに応えられるでしょうか。自分が主の憐れみによって今を生きていると思っているなら、主のように、その人の問題と人生を、自分の問題と人生と受け止めて、自分には解決できないことは分かっていても、その人の問題を自分の問題として、その人の為に主の憐れみを求めるでしょうか。

 人はどうしても自分の基準で相手を見て、自分がどうしたら良いかを判断し、相手を受け入れたり、突き放したりします。昔、不良グループリーダーと友達になり、教会に誘ったことがあります。しかし何回かは来たのですが来なくなりました。教会は自分の居場所では無いと思ったからだそうです。彼は、私の生き方、信仰に惹かれるものを感じたからこそ教会に来ました。

 でも他の人に戸惑いと壁を感じたのです。そして私との間に壁を作ってしまいました。私もその壁を私の力では越えられないと思ってしまいました。しかし越える道はあったです。でも私自身がその道に気付きませんでした。

 叫び続けるバルテマイに戻ります。多くの人々が彼を黙らせようとしましたが、彼は叫び続けました。これが、私が気付かなかった壁を越える為の道です。誰でも、主が自分の現状を変えてくれる方と思うなら、周囲の人々の迷惑感という圧力、無駄だ、諦めろと呟く自分の心に負けずに、祈り求め続ければ良いのです。自分の意思でそれをすれば良いのです。それが、誰にでも可能な目の前の壁を超える道ですと、聖書は彼の姿を通して教えています。

 彼が叫び続けると、主は立ち止まり「あの人を呼べ」と周囲の人に言います。すると人々は彼を呼び「心配しないでよい、さあ、立ちなさい。あなたを呼んでいる」と暖かい声を掛けたのです。主が命じるまでは、人々は彼を黙らせようとしました。しかし、主が彼を呼んだと分かると、逆に「心配しないでよい」と言い、彼と自分達の間にあった壁が無くなり、彼の側に立ったのです。彼らはその盲人の叫びが主の迷惑になると思い込み、彼らが彼と主の間の壁となっていたのです。しかし、主の言葉が彼らの心も変えました。ここに、聖書の言葉に心を向け、主の思いを聞き取ることの大切さが教えられています。み言葉は、世の常識、これ迄の経験から得た知恵に惑わされている私達の心を解放し、自分の理解、判断が自分の思い込みに過ぎなかったと気付かせてくれます。そして私達の心を暖かい心、相手に寄り添う心に変えます。み言葉には力が有ります。互いの心を一つにする力が有ります。

 盲人は、主が自分を呼んでいると知り、上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスの所に来ました。彼が着ていた上着は、昼は外套、夜は毛布の役目を持ちました。律法は上着を質草として取ることを禁じていました、上着は奪われてはならない生活の必需品でした。ですから、主はマタイ福音書の「山上の説教」の5:40で悪い者に手向かわないことを命じた箇所で「下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい」と教えました。人は自分の知恵や力で自分を守ろうとするのでなく、全てを神に委ね、神に守っていただければ良いと教えたのです。彼が上着を脱ぎ捨てた事で、私達は主こそ私達を守る方、主と共にいるなら、自分のもので自分を守る必要がないばかりか、主と共にいられるとの思いが、私達には掛け替えのない喜びとなると聖書は教えます。

 主イエスはやって来た彼に「私に何をして欲しいのか」と聞きました。彼は「私をあわれんでください」と叫び続けただけでした。でも主は。人の心の内を知る方です。何を望んでいるか分かっていた筈です。聖書は、私達も「主よ、主よ、」と呼び掛けるだけで無く「何をどうして欲しいか」と、自分の思いを具体的に言葉に表すことが必要と教えます。私達は主に思いが通じ合う相手として語り掛けることが大切なのです。そこに私達の信仰が現れるからです。子こ覚えておきましょう。ですから彼が「先生、目が見えるようにして」と言うと、主はこれ迄のように、言葉や行為で癒すのではなく「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言いました。彼の信仰を喜び、彼を癒し、彼は見えるようになり、主について行ったのです。

 私達も自分に変えて欲しいものがあれば、彼のように、十字架と復活の主に、憐れみを求めて叫びましょう。私達の叫びは主イエスに届いています。そして私に必要な時、それは同時に主が必要とした時です。その時、主が私達の叫びに応えてくれます。その主に感謝し、喜んで主と共に歩みましょう。