メッセージ(大谷孝志師)
事実、主は復活した
向島キリスト教会 イースター礼拝説教 2023年4月9日
Tコリント15:12-22「事実、主は復活した」

 今日、イースターは主が十字架に掛かって死に、3日目に復活したことを記念し、感謝するです。しかし今年の今日という日は、私達にとっても特別な日になります。それは、約二千年前に人として十字架に掛かって死んだ主イエスが、一人一人の内に霊の体の主キリストとして復活し、共に生きるという世の常識を越えたことが事実として起きるからです。何故そんなことがと不思議に思うかもしれません。確かに聖書は、十字架に掛かって死んだ主イエスが3日目に復活し、その後、40日にわたって弟子達に現れ、神の国について教えたとあり、その後、彼らが見ている前で天に挙げられ、世の終わりの日に再び来ると御使いが告げたと伝えています。しかし、復活を過去の出来事とせず、今日、私達の内に起きる必要があるとが示されたからです。

 パウロがコリント教会の人々に「キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人達がいるのですか」と言ったのは、彼らの中に死者の復活は無いと主張する人達がいたからです。この「あなたがた」は勿論キリスト者です。十字架と復活の主イエスを信じ救われた人々です。彼らは十字架に掛かって死んだイエスが、今自分達の主として共にいることは認めています。しかし、死んで復活したのではないと考えていたのです。勿論、、神が全ての人を救う為に御子を世に遣わし、御子イエスを通して御心を行ったと信じていますし、御子と神は一つであり、イエスは神と等しい方と信じていました。しかしと言うか、だからこそ、神の子が死ぬとは信じられなかったのです。それで、ある人々は、人間イエスの内に神の子キリストが内在していたと考え、十字架の死の直前に神の子キリストは、人間イエスを離れて天に帰ったと考えました。しかし別の人々は、神の御子が人間イエスとなって世に来たことは否定しないのですが、イエスは十字架に掛かって死んだように見えただけで、実は死なず、かつて山の上で姿が変わったように、生きたまま霊の体に変わり、召天したと考えました。このように考えた人々は、自覚していなかったのですが、この世の常識に囚われていて、死は恐ろしいもの、忌むべきものとの考えが根底にあり、それにに支配されていたのです。そして、人は死んだら終わりだから、キリストも死ぬ筈がないと考え、結果的に主の死を否定したのです。パウロはそれが、キリスト者の信仰の要とも言えるキリストの復活を否定することになるので、重大な問題として取り上した。

 死者の復活は、キリスト者が乗り越えなければならない大きな問題です。当時の諸教会は聖霊降臨の日に誕生して間もないので、主の教えを直接聞いた人々がまだ生きていました。しかし誕生したばかりなので、主の教え、信仰について様々な考えの人達がいて、混乱もありました。彼が問題にしている死者の復活の否定した人々も、イエスが神の子、キリスト、救い主と信じていました。しかし死者の中からの復活を信じることが、キリスト者が真の意味でキリスト者になる為には必要なのです。私も、十字架に掛かって死んだと思っていた人間イエスが、ある時私に語り掛けたので、イエスがキリストとして今、自分と共にいることは信じていました。しかし、神学生になってからも、人間イエスが死んで復活したという不思議で常識を超えた事実は、頭では分かってはいても、すっきりとは信じられなかったのです。今は神の力によって主が復活したと信じています。復活信仰は、信仰によって奇跡を信じることで持てるのです。

 私達は様々な映像で地球が球体で、太陽の周りを回っていると知っています。しかしコペルニクスが、宇宙は地球を中心に天体が動いているのではなく、地球も動いていると地動説を唱えた時、人々は信じませんでした。地球は球体で、宇宙空間を移動いるのですが、全てが地球の引力にしっかり地表に捉えられているので、昔の人が信じなかったのは無理もないことでした。コペルニクスの説を支持したガリレオが、裁判で「それでも地球は動く」と言ったのは有名な話ですが、天地創造以来、地球が秒速600`という猛烈な早さで動いているのは事実なのです。同じように、今から約二千年前のこの日、御子イエス・キリストが死人の中から復活したのも事実起きた事です。キリスト者は誰もが、その事実を事実として信じ、その事実に立ってこの世に生きています。十字架のキリストの死者の中からの復活無くして、今の自分はあり得ないからです。ですからパウロは、キリスト者にとって最も大事な事として、人の子として世に来て十字架に掛かって死んだ主イエスの復活の理由と目的を教ているのです。しかし、今の世の人々に、主イエスが復活したと私達が言っても、人々にとってはどちらでも良い事でしかありません。しかし人々がどう受け止めようとも、主キリストが復活して今も生きて働いていることは、全ての人の一生を左右する重大事なのです。その事実を知らせる為に、今の私達の人生を変え、決定づけた事として、十字架に掛かって死んだ主イエスの復活が事実起きたことを、今改めて自分の内に確認して、私達自身が自分の内にいる主キリストと共に、世に生きる必要があるのです。

 と言うのは、地球が球体であることは高い所に上り、海の真ん中に出れば理解できます。しかし、地球が動いていることは証拠を見なければ信じられないからです。今は小学生でも動いていると信じています。その証拠を知らせる人がいたからです。主キリストの復活が事実であることを世の人々が知らないのは、私達が、主の復活を事実の証拠を人々に示していないからです。示していないとすれば、事実だと示す証拠を自分の内に持っていないことに原因があります。素晴らしい事が起きているのに、他の人が知らない、でも自分だけが知っていると思えば、他の人に知らせたくなる筈です。静かに深く自分を見つめてみましょう。自分の内に、自分と一緒に死者の中から復活した主イエス・キリストがいるでしょうか。もし、いないと感じたら、それは自分にとって主が復活していないことになります。

 私も信仰のスランプを何度か経験しました。それは、主が復活したと知っていても、知識だけでは何の力も湧かなかったからです。十字架に掛かって死んだ主イエスがキリストとして復活して、自分の内に共にいることを自分が体験して初めて、自分にとって主キリストが復活していることになるのです。ですから主の復活を他人事のように考えているだけでは、世の様々な引力に縛り付けられ、主イエスの復活が事実でどんなに素晴らしい事かを知らない人々には、キリスト者の戯言にしか聞こえないのです。私達が変わらなければ世の人々は変われません。ですから私達が、主イエス・キリストが死者の中から復活して共にいなければ到底考えられない生き方をしている自分を、死が全ての終わりでないと知り、主に永遠の命を与えられた者として、信仰と希望と愛をもって喜びと平安に満ちた生活をしてこの世で生きる自分を、人々に知らせましょう。この素晴らしい喜びに満ちた人生があると、私達の家族、友人知人達が知り、私達と同じ神の家族となる為に、主は今も私達の内にいて、働いています。その事実を確認し、その信仰に立って世に生きる者となりましょう。