メッセージ(大谷孝志師)
私達は地の塩・世の光
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年4月9日
マタイ5:13-16「私達は地の塩・世の光」 牧師 大谷 孝志

 地域の人々に福音を伝え、私達の教会のことを知って貰う為に、年に何回か「地の塩・世の光」を発行している。日本の社会ではそれ程広く使われてはいないが、社会の恵まれていない人々の為に、自分を犠牲にして奉仕している人々、自分の行いで人々の心を明るくしたり、和ませたりした人々にこの言葉が使われることもある。この言葉が示している生き方は、私達キリスト者にとって非常に重要。 今から60年以上昔「蟻の町のマリア」という映画があった。東京の下町で「ばたや」今で言う廃品回収業で生計を立てていた人々の地域に住み、その人々の心を明るく励まし続け、過労で倒れ、療養のため「蟻の町」を離れるが、やがて死期を悟ると「蟻の町」に再び移住。1958年腎臓病で天に召された。彼女だけでなく、マザーテレサも大きな働きをした。何故キリスト者は自分の命を投げ出して人の為に尽くすのか。それは主が「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」と教えたから。

 そして主は自分が十字架に命を捨てて、人を愛するとは、自分を愛するように相手を愛し、自分と同じように、相手を大事にせよと教えた。だからキリスト者は他者への奉仕を大切にする、それが地の塩・世の光となることに表れている。

 「地と世」はこの世に生きる人々。塩は他のものの中に溶け込むことで、相手を腐食から守ったり、相手の味を引き出したりして、自分の役目を果たす。余程疲れている人は別だが、塩だけをなめて美味しいと思う人はいないのではないか。塩は自分を無にすることで相手を生かす。また、油や蝋は、燃え尽きるまで自分を燃やしながら周囲に光を与える。主が「あなたがたは地の塩、世の光」と言ったのは、私達がそうすることで世の人々の心や人生が明るいもの、生き生きとしたものになるから。主イエスの愛を知るとそのような生き方ができると知ろう。

 誰も自分が大事ということは否定はしない。でも自分だけ良ければ良いと思う生き方をしていると、最初は良くてもやがて寂しくなり、満たされないものを感じてしまう。それは、人は一人では生きられないから。そして自分さえ良ければ良いという生き方は人本来の生き方ではないからだと思う。主イエスが教えたように、地の塩、世の光として生きようとすることが、自分にとっても、周囲の人にとっても良い結果を生む生き方になる。だから主イエスはそうするよう教えた。

 しかしどうしても、人は自分大事の思いが言動に表れてしまう。良いと分かっていてもできない場合が多いのでは。聖書は、良いと分かっていてもせず、悪いと分かったもしてしまう人の弱さを罪の一つとして挙げる。神は人が、良いと分かっている事をし、悪いと分かっている事はしない事を望む。しかし人は、相手の意思や自由を尊重するという、人として当たり前の事ができない現実が私達の周囲にあるのでは。世の中には「男だから、女だから」とか「男らしく、女らしく」と言って無意識に性差別をし「〜だから」「〜らしく」という表現で個性という尊厳を認めず、尊重しない現実があるのは悲しい。「地の塩、世の光」として生きることは、言い換えると一人一人の尊厳を認め、受け入れることだと言える。相手が苦しみ悩んでいようが、死のうが平気なら、地の塩、世の光として生きる必要は無い。目の前にいる人を大切にし、その人の為に生きよう。それが地の塩、世の光として生き、キリスト者として生きること、それが主が喜ぶ私達の生き方。