メッセージ(大谷孝志師)
同行三人 主と共に
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年4月16日
ルカ24:13-35「同行三人 主と共に」

 西国巡礼をする人々が使う言葉に「同行二人」があります。この読みは「どうこうふたり」ではなく「どうぎょうににん」です。その人々が霊場を廻る時、自分は一人ではなく、弘法大師がいつも一緒にいるとの信仰を表しています。人々は姿は見えなくても自分と一緒にいると信じています。弘法大師が自分に何かをし、危急から救ってくれるからではないと思います。そう信じるだけで、勇気が出、前向きに生きられるのだと思います。私達はどうでしょうか。主イエスを信じてこの世に生きています。「群衆の中の孤独」という言葉があるのをご存じでしょうか。集団の中で、突然、自分は一人なのだ、誰も自分の事を分かってくれないと孤独感に襲われることを表現する言葉です。辛く悲しいものです。私がバプテスマを受ける決心をしたのも実は、教会の交わりの中で「群衆の中の孤独」を味わったからです。しかしその時、復活の主イエスが「私があなたの友だよ。私が一緒にいるではないか」と声を掛けたのです。私の人生は一変しました。教会の人々への見方も変わり、私とこの人、あの人と一緒に主もいるのだと分かり気が楽になったのです。

 さて今日の個所は、主が復活した日の出来事です。復活した主イエスが、故郷の村に帰ろうとしている二人の弟子に現れ、共に歩きました。ですから「同行三人」です。「これらの出来事」というのは、主イエスの十字架の死と主が復活したとの報告です。主の復活の朝、死体に塗る香料を持って墓に来た女性達が、御使いから主は復活し、生きていると聞かされ、使徒達の所に行ってに話したのですが、彼らも戯言のように思った事と、ペテロが事実確認の為、墓に行ったけれど、主を包んでいた亜麻布だけしか見えなかった事です。二人は、主が復活したらしいと女性達とペテロから聞きました。しかし、確かなことは判らず互いの思いをぶつけ合っていたのでした。主イエスが死んで復活したことは、死者の復活の奇跡を何度か目撃していた弟子達には、今の私達よりは信じ易かったかもしれません。しかし、その奇跡を行った主が死んだのです。その衝撃は甚大でした。伝言では確信も否定も出来ず、論じ合っていました。そこに主が近付いて来て、彼らと共に歩き始めたのです。それは、主が彼らを復活の事実の証人に選んだからです。

 私達も今日、主イエスの復活を祝っています。主が復活していると教会の宣教によって知らされ、ある時、それを信じました。これは偶然でも、自分の努力の結果でもありません。世の多くに人々の中で、私達を新たな主の復活の証人に選んだからなのです。勿論個人差はありますが、直ぐには信じられなかったと思います。私は三ヶ月でしたが、十年教会に来続けて要約信じた人もいました。

 二人も復活の主が共に歩いているのに分かりませんでした。主の方から、話しているのは何の事かと彼らに尋ねました。内容が分からないからではありません。彼らがイエスがした事、イエスに起きた事についてどうどう考えているか尋ねたのです。彼らは「イエスが行いにも言葉にも力ある預言者であり、イスラエルを解放する方と望みを掛けていました。でも、十字架で処刑されて死んでしまいました。更に、女性達が主が生きていると告げる御使いの幻を見たとの報告を受け、仲間が死体がないと確認した」と言います。 彼らは知らされた事は、自分達の常識を越えた事なので、自分の理解可能な範囲でしか判断出来ません。それは人間誰しも言えることです。ですから、彼らは真実を見極められないまま、失意の中で故郷に帰る途上だったのです。

 しかし、主は信じない者を放置せず、信じる者とする為に共に歩む方です。全ての人の為に起きた救いの出来事を人々に伝える主の証人とする為です。私達はその主の御心と働き掛けにより、今ここで主を礼拝しているのです。主イエスは十字架に掛かって死にました。主は霊の体に復活し、主を信じる私達と共に今も歩んでいます。私達この教会の一員として、それを自覚しているでしょうか。信じる前から主は私達一人一人と共に歩んでいます。主を信じない時は、共にいると分からないのは当然ですが、主を信じていても、復活の主が自分達と共にいると実感できなかったことはなかったでしょうか。

 彼らが主だと分からなかったのは、二人の目が遮られていたからでした。私達も主が共にいると実感できない時は、心の目が遮られているのです。彼らの場合は主が目的をもって目を遮りました。しかし私達の場合は違います。信仰や主イエスについて分からなくなることは震央生活を続けていると確かにあります。聖書を読み、祈っている時、互いに語り合っている時、ある言葉が心に浮ぶことがあります。でもそれが、自分や相手の思い込みに違いないと思い、自己分析や議論をしてしまうことがあります。それらの中には正しいと思えるものが有ったとしても、真実だと確信できないからなのです。

 そのような迷いの道を抜け出す方法があります。人間同士の対話の自己主張という壁に遮られていて、それを見出せないだけで、解決策、真実は聖書の中に、祈りの中で示されたことの中にあるのに、分からないだけなのです。

 ですから、彼らの話を聞いていた主は言います。「ああ、愚かな者達、心が鈍く、預言者達の言ったことすべてを悟れない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずではなかったのではありませんか」と。十字架に掛かって死ぬ前に、主がこうなると言っていた事が現実に起きたのです。しかし、主イエスが復活した日の早朝、女性達が埋葬された墓に行ったが主の遺体が見付からず途方に暮れていると、まばゆいばかりの衣と着た二人の人、御使いですが、近くに来て。イエスが生きていると告げたと、彼女達から聞きました。その後、仲間の数人の弟子達が事実確認の為に墓に行ったけれど、遺体を包んでいた亜麻布だけがあったと聞いたのに、自分達が見聞きしていない事ので、それが事実で、栄光に満ちたものであることが分からないのです。

 私達も同じです。「百聞は一見にしかず」なのです。見ていない事は信じられません。しかし私達はその見ていない事を信じています。彼らのように信じる者に変えられたからです。主が彼らに、ご自分について聖書全体に書いてあるこことを解き明かしたからです。私達に当て嵌めると、御霊の導きにより、聖書の言葉が神の言葉として心に響き、見ていないけれど、主イエス・キリストが神の子・救い主と信じられたのです。不思議なことですが、歴史の中で事実起きた事だと分かったのです。

 彼らはエマオに着きますが、先に行きそうなイエスを引き留め、泊まる為に共に家に入ります。食卓に着くと、主がパンを取って、神を褒め称え、裂いて彼らに渡しました。すると彼らの目が開かれ、主と分かったのですが、姿が見えなくなりました。主イエスが失意の中で故郷に帰ろうとしていた二人と共に歩んだことにより、彼らは信仰を、生き生きとした人生を取り戻せました。教会は神の家族。でも、人間的思いだけでは、互いを兄弟姉妹と思っていても、躓くこともあります。復活の主が私と兄姉の人生を共に歩んでいる知りましょう。信仰生活は「同行三人」と信じる時、互いの信仰が、教会が成長していきます。主の恵み溢れる温かで豊かな教会になっていきます。