メッセージ(大谷孝志師)
出来る人になろう
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年4月16日
ローマ15:14-16「出来る人になろう」 牧師 大谷 孝志

 人は本来的に善であるか悪であるかは、人によって判断が異なる。悪い事をした人を見ても、人間だからしょうが無いと思う人もいれば、絶対に駄目だと非難する人もいる。また、善悪の基準は、時代により、住む社会によっても異なる。

 しかし聖書は、それらのこの世の基準とは別の基準があると教える。それは、主に喜ばれるかどうかという基準。とは言え、聖書が善であるとすることを全て守れるかというと不可能。更に、何が主に喜ばれるかは、主が前もって人に示さないので、後で、これが主が喜ぶ善い事だったのだと気付くしかない。真剣に考えても、いったい何が善なのか判らなくなり、悩み続ける。それが私達の現実。

 また「善意に溢れ、あらゆる知識に満たされ」ているとパウロは言うが、自分を見る限りそうではないとしか思えない。ましてや、相手を訓戒できる程の人間ではないとしか思えない。しかし彼は、善意に溢れ、あらゆる知恵に満たされ、互いに訓戒し合えると言う。この手紙の読者もそうだ思うが、私達も自分を見て、とても考えられない。何故、彼はそう言うのか。それは、主を信じる者はそれができるから。それが救われるということ、永遠の命を与えられ、神の子とされてるということだから。聖書は私達に後ろ向きの人生ではなく、前向きの人生を示している。キリスト者は驚くべき主の恵みの内にいるから。主は悪霊に憑かれた息子の癒しを求めてきた父親に「もしできればと言うのか。信じる者にはどんな事でもできる」と言う。これは私達が信じる主の言葉。主がいい加減な事を言ったのでも、マルコが主が言いもしない事を書いたのではない。主はマルタに「生きていて私を信じる者は皆、永遠に決して死ぬ事は無い。あなたなこれを信じるか」と言う。主は信じない者ではなく、信じる者になることを求める。主は確かに弟子達と共に生きていたし、今も目には見えないが、私達と共に生きている。

 パウロは読者に「希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に溢れさせて下さるようにと祈っている。彼は神に出来ないことをして下さいと祈っているのではない。自分にだけでなく、多くの教会の人々に神がしてきた事を知るから、ローマのキリスト者の為にも祈る。

 しかし彼が祈ったから彼らが出来るようになるのでははい。彼らが神の恵みの受け皿になることによって、彼らが喜びと平安で乱され、希望に溢れる者になれる。主はわたしは葡萄の木、あなたがたはその枝と言う。主に繋がっていれば豊かな実を結べる。善意と知恵に満ち溢れ、互いに訓戒し合える。私達がそうできると信じられないとしたら、主の豊かな恵みと力、全てを覆い尽くす愛を信じていないことになる。何故信じられないのか。この世と調子を合わせられても、ころを新たにされ、自分を変えて頂いていないから。そこ迄信じられないと自分を諦めずに霊に憑かれた息子との父親のように「信じます、不信仰な私をお助け下さい」と叫ぼう。パウロが懸命にこの福音の世界に私達にも生きて欲しいと願う。私達も、主が全てを支配する世界に自分を投げ出し、主に全てを任せ、委ねよう。

 誰でも主に喜ばれる正しい生き方が出来る。その為に主が十字架に掛かって死に、復活して今も共に生きている。そして私達と共に私達の人生を歩んでいる。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言うその主を信じて、主の恵みと愛の受け皿になろう、主が助け導くから、主のように人を愛せる人、支えられる人、寄り添える人になれる。出来る人になろう。私達にも出来るのだから。