メッセージ(大谷孝志師)
信じる者となろう
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年4月23日
ヨハネ20:24-31「信じる者となろう」

 私は高校二年の時にクリスチャンになりました。キリスト教は好きでも嫌いでもなかったのですが、教会や讃美歌が好きな母に勧められて、教会に行き始めました。一人っ子の私が思春期になり、子育てに自信がなくなり、教会に任せたからと、後になって聞きました。始めは母が勧めても、自分が行きたい時に行く状態でしたが、その年のクリスマスに、教会の人達の姿に魅了され、ああいう風になりたいと思い、礼拝と諸集会に出席し始めました。真面目に通うようになると先輩の高校生に「バプテスマを受ければ良いのに」言われたのですが、主イエスの存在が信じられなかったので、決心できませんでした。しかしそんな私に、姿は見えなかったがのですが、日本語でイエスが語り掛け、主イエスが今も生きていると知ったのです。そして信仰告白をし、バプテスマを受け、キリスト者になりました。今日は原点に立ち帰り、信じるとはどういうことなのかについて、御言葉を共に学びたいと思います。

 信じると言う時、普通は見ていない事、確認していない事を信じると言います。自分が見て確認していれば、知っているよ、分かっているから等と言ます。しかし、信じるという場合、それには事実確認以上のもっと深い意味があると私は思います。例えば、結婚を申し込む時、男性が女性に「私を信じて欲しい」と言う時は「この私を受け入れ、付いて来て欲しい」との願いが込められていると思うし、「私を信じられないのか」と言う時には「私の真実や誠実さを認めて欲しい」との願いが内にあるのでは、と思うからです。

 今日の31節に「これらのことが書かれたのは、、イエスが神の子キリストであると信じるためであり、また信じて、イエスの名によって命を受けるためである」とありますが、この福音書に限らず聖書はこの為に書かれ、主イエスはこの為にトマスに働き掛けているのです。彼は十二弟子の一人ですが、信じない者から信じる者に変えられたのです。彼は主と共に生活するの中で、主の教えを聞き、主が行う不思議な奇跡を体験し、イエスがメシア、つまりキリスト、救い主と認めていました。でもその主イエスが、何の抵抗もせず、十字架に掛けて殺され、死んだのです。先週の故郷に帰ろうとした二人の弟子達のように、あり得ないと思う主の十字架の死が重くのし掛かり、失意の中にいたのだと思います。ところがその彼に、他の弟子達が「私達は主を見た」と言ったのです。それを聞いた彼は激しく反発し、「私はその手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、そのわき腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言ったのです。酷い言葉です。自分だけがとの思いが溢れ出、感情的になったのでしょうが、人は見ていない事は、それが真実かどうかを考えるより、自分の常識と経験でこうだと決め付けるところがあるのです。でも、主は真実を信じようとしない彼に、十字架の痛みをもう一度引き受けるから、あなたの思う通りにしてごらんと言い、十字架に掛かって死んだ自分が復活して、今彼の前に言いることを示し、彼は主の復活を信じました。

 しかし世の人々は、私達が主イエスが自分と共にいると言っても決して信じません。信じたのは個人的経験の結果で、物理的証拠を示せないからです。主は復活後天に昇り、将来再び姿を現すまでは人の目には見えません。でも私達は主に出会ったことは無くても、共にいると信じています。日常生活の中でそう信じざるを言えない経験を何度もしているからです。とは言え個人的経験に過ぎず、主が今生きていると人に信じて貰うのはとても難しいです。

 しかし、世界中の多くの人々が、主イエスが今も生きていると信じているのは事実です。信じることは絶対に不可能なことではなく、人は日常的にしていることなのです。先日のWBCでは、侍ジャパンの栗山監督が選手を信じ抜いて勝利をもたらし、信じることの素晴らしさを多くの日本人は改めて知らされたのではないでしょうか。

 人は様々な事を信じながら生きています。信じることにより、人は希望と慰めを持てます。私達で言えば、火葬場で骨拾いをした時、私達は「目に見える体は消え、灰になるが、目に見えない霊の体に復活し、再び会える」と信じます。死による別れは辛く悲しいものです。でも、永遠の命を与えられていると信じるなら、人生は死で終わらないと再会の希望を持ち、慰めと平安を得ます。信じることは素晴らしいことです。

 主イエスは「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とトマスに言いました。主は単に、私が復活した事実を信じて欲しいと言ったのではありません。この私に従い、私と共に生きる者になって欲しいと言ったのです。信じることは、生き方が変わることなのです。私も主イエスを信じることで、人生が大きく変わりました。はっきりとした目標が出来たのです。勿論それ迄も、目標らしいものものは有りました。小学校の卒業文集に「将来の目標は電電公社総裁」と書きました。父が電電公社に勤めていたからです。しかし、夢、思いつきに過ぎませんでした。しかし、主イエスを信じると、主に従って、共に生きれば良いと分かり、自分の進む道がはっきりしたのです。これ迄の歩みの中で、主は私の全てを知り、その時々に必要なものを与え、進むべき道を示して下さっています。

 それだけではありません。主を信じることで、自分の内面に変化が生まれました。それ迄は、自分の良い所は自分で認めました。しかし、悪い所は気付いたとしても。見ない振りをしたり、無視していました。善悪の基準を自分で決めていたからです。しかし、それにより相手を傷付け、自分も傷付いていました。でも仕方がないと思いました。主を信じる前は、私は自分では気付かないまま、闇の中にいたからです。

 主イエスがトマスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言ったのは、彼が光の世界があるのを知らずに闇の中で悶々としているので、光の中に移す為です。彼がまだ、復活の主の姿を見ていないので、主の復活という新しい事実が起きていることが分からないからです。彼は、密閉された地下室に閉じ込められ、朝が来てもいつ朝が来たのかが分からない人と同じだったのです。その人が地下室から解放されれば、朝が来ていると分かります。ですから、主はトマスの所に来たのです。主は彼を愛し、彼の所に来て、彼を信じない者ではなく、信じる者に変えました。

 主は今、ご自分の存在を知らずにいる人々が、滅びに向かっているのを放っているのではありません。教会があるのを知り、友人知人がクリスチャンであり、教会に行っているのを知っていても、殆どの人は、教会に行こうとは思っていません。主の存在を、主が最高の救いだとは知らないからです。しかし主はその人々を愛し、信じる者となるのを願っています。主イエス・キリストは昨日も今日も、とこしえに変わることなく、全ての人を照らすまことの光として。世の人々を照らし続けています。

 今も、目には見えなくてもここにいて。全ての人を元気にする見えない光で照らしているのです。今、心を静めて見えないイエスに心を向けましょう。心から主イエスを信じる者になり、私達がその光に照らされ、信仰と希望と愛をもって世に生きる姿を人々に示しましょう。信じない者ではなく、自分にもできると信じ、世に生き生きと生きましょう。