メッセージ(大谷孝志師)
困っている人に主を見る
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年4月23日
マタイ25:34-40「困っている人に主を見る」 牧師 大谷 孝志

 東京下町の長屋に住んでいた。ベニヤ二枚で仕切られているだけで、隣近所の生活は丸聞こえ、昔、となりぐみの歌が有ったが、皆、顔なじみで、助けられたり、助けたりしていた。それに他に行く所のない親戚の人を両親が引き取り、狭い家に長い間一緒に住んでいた。その人が施設に入り、私達も千葉県の柏市の一軒家に引っ越した時は、両親特に母がホッとしていた。でも暫くすると父の友人の赤ちゃんをひい取ることになったのです。無理もなかったのですが、その子は夜通し泣きました。結局その子の母親が迎えに来ました。どんなに苦労しても、親子が一緒にいるのが一番だと血私の父が諭していたのを記憶している。私の母は随分としんどい思いをしたと思います。でも、それにしっかりと耐えていた。そして「困っている時はお互い様だよ」と、よく笑って私に話したものだった。「自分の事より他人のこと」言うのは簡単だが、母の姿は私の目に焼き付いている。

 人は誰も他人の助けを必要としている。そして助け合うことで相手をより深く理解できる。言葉や行いは自分の思いをはっきりと相手に伝えることになるから。また、助けられることによって、、相手が自分をどう思っているかを感じ取れる。相手を助ける為には努力や犠牲が必要だが、それによって、互いの関係が感謝と喜びで結ばれていく。助け合うことは結果的に互いの心を豊かにする素晴らしい事。

 しかし、今日の個所は困っている人を助けることはそれ以上に深い意味があると教える。今日の聖句が出てくる小説がある。「靴屋のマルチン」という別名で知られているが、原題は「愛あることに神あり」。この話の大切な点は、靴屋のマルチンが、「明日、通りを見ていなさい。私が行くから」と言う主の声を聞き、待っていたこと。そして彼は、相手の立場に立って物事を考え、行動する。道の雪を掻き切れない老人を見て、歳を取り、疲れ切って雪を掻き切れれなくなったのだろう。家の中に入れてお茶を一杯飲ませてあげたら喜ぶだろうと考え、実行した。

 彼は主イエスが来るのを待ち続けたが、目の前に来る人は、様々な事情で困っている人ばかり。でも彼は、その人々に出来るだけのことをした。最初の老人は「お前さんは私にご馳走をして、心も体もすっかり養って下さった」と。マルチンにそのような事ができたのは「イエス様はもっと素晴らしい事を私にして下さった。それに比べたら、自分のした事は小さな事さ」と考えていたかから。彼が主イエスを迎えようとする気持ちで待っていたから出来、その気持ちから出たもてなしが、老人や他の人々の心を豊かにした。また彼は、リンゴを結んだ子の尻をはたこうとしたおばあさんに、主の「一万タラントの借金を赦して貰ったのに、百デナリの借金を返せなかった人を赦せなかった人の譬え話」して、神は赦せと言っておられるんだよと諭す。そして、おばあさんの心もその子の心も優しくなる。夜、仕事を終え、夕べの続きの聖書を読もうとすると別の箇所が開く。背後に人の気配を感じ振り返ると。彼が親切にした人達が現れ「これが私だよ」と言っては消えて行った。喜びに満たされた彼は開かれていた聖書を読む。この35節。彼は、主が自分の所に来、自分は主を正しく迎えられたと感謝をした。

 主は困っている人として私達の前に現れ、その人を愛することを通して、私達の心を豊かに成長するよう働き掛けている。主は私達に「私があなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」との戒めを行う訓練を、様々な事で困っている人に出会わせることでしていると知り、心を込めて相手に接しよう。