メッセージ(大谷孝志師)
赦すって難しいが
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年4月30日
マタイ18:21-35「赦すって難しいが」 牧師 大谷 孝志

 「赦すと言うことは、忘れることだよ」と母に言われたことを思い出す。一旦「赦す」と言ったら、何時迄もぐずぐす言うものではないと。しかし、「あの時は赦してやったな」と、つい恩着せがましくなるのが人間。それでは赦していないことに他ならない。昔、『忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ』という有名なナレーションで始まる『君の名は』というNHKラジオドラマが1952年にあった。これが始まると女湯が空になったと言う。この言葉のように忘れるということは本当に難しい。でも人間は忘れることが出来るから生きていけると言われる。忘れることが出来なければ人は発狂してしまうとある学者が言った。問題は、自分の悪い事と他人の良い事は直ぐ忘れるけれど、他人の悪い事と自分の良い事は忘れないという都合の良い性質を人は持つところにある。しかし人間、他人の悪い事が何時迄も心に引っかかっていたら、気まずいままになる。だから赦そうと思うが、際限なくは赦せない。相手を付け上がらせるだけだから。仏教では「仏の顔も三度まで」と言う。ユダヤ教の指導者も三回までは赦せと教えた。

 しかし世阿弥という人が「忘れんと思う心こそ、忘れぬよりは思いなれ」と言った。赦さなければと人が思う時、赦さない自分よりも、もっと強く相手を赦していない自分に気付けという意味。赦す為には、自分や相手への執着を捨てきることが大事だと教えられる。だから、赦すと言うのは本当に難しいことと言える。だからペテロも、かつて主に七回迄は赦しなさいと言われたのを思い出し、「兄弟が私に罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回迄ですか」と主に尋ねた。すると主は「七回を七十倍するまで」と答えた。それは491回目には赦さなくて良いと教えたのではない。制限する必要は無い。常に、徹底的に赦せと主は教えた。

 そこで主は一つの譬え話をした。1万タラントは、当時のヘロデ王の年収が900タラントだから途方もない額。一家来が作れるような負債ではない。主は時折、極端な譬えを用いる。この譬えは、人の罪が人が思う以上に大きいが、人はそれに気付いていない。人は神に一万タラントに相当する大きな罪を赦されている。だから、自分に犯した相手の罪を全て赦せと主は教えている。しかしこの譬え話の主眼はそこではない。1万タラントの六十万分の一の百デナリを貸したが返せない相手を赦さなかった事。彼には一万タラントより百デナリの方が大きかった。

 しかし彼を思い、私達は相手を徹底的に、常に赦せるか。赦せないのは自分中心、自分大事の考えに縛られているから。先の事が分からず、不安が先立つから。そうなるのは神を信じ切っていないと気付こう。神が私に常に最善をなしていると信じ切れば、どんな人でも、どんな状況でも希望を持って喜んで相手を赦せる。神を信じ切れない弱さを聖書は罪と呼ぶ。信じない者ではなく、信じる者とする為に、主は十字架に掛かって死に、私達の罪を引き受けてくれた。主イエスを信じる者は新しい人として、豊かな神の愛の世界に今生きている。私達をそのあるがままで、全てを引き受ける十字架と復活の主の愛を静かに心に刻み込もう。全てを私に委ねよと語り掛ける主の愛に励まされるなら、主に力を与えられ、相手を赦し、相手と共に生きる者となれる。どうにも赦せないと思う相手を赦し、共に生きるのは人には出来ない。しかし主は言う。「神は違います。神にはどんなことでもできるのです」。その神を信じ切ろう。互いに愛し合い、受け入れ合い、共に生きられる。主に赦された自分として、相手を心から赦す者になろう。