メッセージ(大谷孝志師)
迷える小羊の私達
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年5月7日
マタイ18:12-14「迷える小羊の私達」

 子供の頃、親戚の人と遊びに行き、途中ではぐれてしまいました。親切な人がいて私を交番に連れて行き、お巡りさんが連絡して、親戚の人が迎えに来ました。そして無事にその家に帰ったのを覚えています。まだ小学校入学前で、とても心細いものでした。何故迷子になったのかは思い出せないのですが、多分、遊園地の出し物に見とれている内に親戚の人達とはぐれたのだと思います。迷子と言えば、私は子供の頃東京の下町に住んでいたので、時々チンドン屋が通りを練り歩くのを見ました。それについて行って迷子になった友達がいたのを覚えています。夢中になって遊んでいる内に時間を忘れたり、周りのものが関係なくなってしまい、面白いと思い、それにしか目に入らなくなってしまったのです。大人も時間を忘れたり、周囲が見えなくなったり、他人のことがどうでも良くなることが有るのではないでしょうか。

 今日の話は、一匹の羊が迷子になった話です。聖書には小羊とは書いてないので、大人の羊だったもかもしれません。羊飼いは迷い出た一匹を捜す為なら、99匹を山に残して捜しに出掛けるでしょうと主は言います。この羊が他の99匹の羊よりも立派で大切だったからでしょうか。主はこの譬え話の最後で「この小さい者たちの一人が」と言います。ですから迷い出た羊は、弱く小さい羊だったと考えられます。そして、羊飼いは99匹の羊を囲いの中ではなく、山に残してまでも探しに行くと教えます。つまり、一匹の為に、99匹の羊が決して安全とは言えない山に放っておかれたのです。しかし主は、一匹の為に、99匹を犠牲にしても良い時や場合があると教えているのではありません。迷い出た一匹、その一匹が問題なのです。主はこの譬え話で、一つの集団から迷い出てしまった人がいれば、神はその人を大切に思い、追い掛け、捜し求めていると教えているのです。主はこの羊が何で迷い出てしまったのかは問題にしていません。そして、この羊を見つけた時の羊飼いの喜びようからしても、この羊は、羊飼いの所有であったと考えられます。

 この譬え話は、弟子達が主の所に来て、「天の御国では、いったい誰が一番偉いのですか」と聞いたことに対する主の答えの一部です。主は一人の子供を呼び寄せ、「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して神の国に入れません。ですから誰でもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」と言いました。主は自分で勝手に相手を評価して、ある人を大事にしたり、大事にしなかったりしてはいけないと教えています。そして、理由は何であるかに拘わらず、教会の群れから出てしまった人がいたら、その人を放っておかずに、自分達の群れに戻ってこられるようにと、最善を尽くしなさいと弟子達に、そして私達にも教えているのです。

 と言うのは、その人が自分の意思で出て行ったにせよ、それは、その人の為にはならないからなのです。何故でしょう。百匹の羊は山の中にいました。山の中でも、羊飼いの目の届くところにいれば安全です。そこから迷い出たら、守る者がいない状態になり、様々な危険に曝されていることになります。それなら、羊飼いが探しに行っている間の99匹も危険に曝されているのではと思うかもしれません。主はマルコ8:36で「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の益があるでしょうか」と言います。主はここで、人にとって自分の命は、他の何ものにも換えられないと教えているのです。主はこの譬え話で、教会から迷い出た人も、天の御国から出てしまい、主の恵みと平安を自分から捨てたことになり、とても大変な結果になるので、その人が立ち帰れるように働き掛けることが必要と教えているのです。

 教会の主にある交わりから出て行った人も、交わりの中にいる者達と同じように、様々な出来事に直面する中で、不安や恐れを感じて生きながらも、自分で何とかしなければと頑張ってはいるのです。しかしそれでは、保護者である羊飼いのいる群れから迷い出た羊と同じなのです。自分では出た方が良いと思って出て来たものの、保護者のいない世界では、自分で判断するしかなく、ここは自分がいて良い場所とは思えず、不安定で不安な状態にいるかもしれません。主にとっては、その人もご自分の大切な一人なのです。しかし私達は、主にある交わりから出て行った人のことをどう考えているでしょう。他人事と考えて、私と関係ないと思っていることはないでしょうか。でも、主にはその人も私達と同じ大切な人です。私達がその人の事をどう考えようとも、その人が滅びに向かって行くのを悲しい目で見つめています。私達は群れから出ていった人、礼拝に来なくなった人のことをどう考えているでしょうか。教会は神の家族と言います。でもその人を家族のように考えているでしょうか。人の価値は人それぞれです。確かに大切な人もいれば、逆に、どうでも良い人もいます。自分や教会にとって大切と思う人がいなくなれば、心配になり、戻るにはどうしたら良いかを真剣に考え、何らかの行動を起こします。でも、どうでも良ければ無関心のままです。そうだとすると、私達は自分の価値観、判断基準で相手を見てしまっているのです。

 しかし主は違います。主はここで、百匹の羊を持つ羊飼いは、99匹の羊を山に残して、迷い出た一匹の羊を探しに出掛けると言います。その羊が迷い出たことが問題なのです。その羊が彼にとって大切だからです。それだけではありません。聖書は、その一匹が99匹の羊にとっても大切なことに気付けと教えているのです。能力のある人無い人、功績のある人損害を与える人等、私達は人を様々に区別しています。しかし、主はその全ての人を同じように見ているのです。私達も自分の価値観や判断基準で相手を見てはいけないのです、そこに分裂や差別が生じ、それは神の国に相応しくないからです。主は「この小さい者の一人を軽んじないように気を付けなさい」と言います。主イエスは誰の為に十字架に架かって死んだのでしょうか。主は私の為、大切に思うに肉親の為、祈り合う信仰の友の為だけではありません。どうでも良い人、いない方が良いと思っている人の為にも、主は十字架に掛かって死んだのです。主にとって一人一人は掛け替えの無い重さを持つ人であり、救われる価値のない人は一人もいません。自分を見詰めて、救われる価値はないと思っても、救われたいと思わないでしょうか。誰でも救われます。主は私達をも愛し、私達の為に命を捨てて下さいました。だれでも主を信じ、永遠の命を得、神の国、主が全てを支配する世界に生き、恵みと平安を頂けます。

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」との御言葉は確かです。私達は主を信じて救われました。そして今素晴らしい主の恵みの世界に生きているではありませんか。この神の恵みの世界に生きる条件はただ一つです。主が私達を愛したように、互いに愛し合うことなのです。ですから、教会にいる一人一人がどんな人であっても、自分の価値観、判断基準で判断せず、主がこの私を愛し、受け入れているように、愛し受け入れ、大切にしましょう。迷い出た人にはその人なりの理由があったからでしょうが、その人を大切に思い、戻ってこられるよう主に願い続けましょう。そして、その人を主が連れ戻して下さった時、皆で喜び祝いましょう。教会は人が資質や能力、功績等で区別されず、寂しい思い、卑屈な思いになること無く、人として互いに尊重され、大切にされる社会です。それが教会であることを、この譬え話を通して主は私達に教えています。感謝です。