メッセージ(大谷孝志師)
私達の道を委ねよう
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年5月14日
詩篇37:3-6「私達の道を委ねよう」

 この向島の地で私達の教会の働きが始まって77年になります。この間、多くの伝道者が遣わされ、多くの信徒がこの教会に招き入れられ、主の守りと導きの中で福音宣教の働きがされ続けてきました。昨年度もコロナ禍の中でありましたが,お手元にある教会定期総会議案にあるように、主の恵みと導きを頂き、着実な教会活動が続けられて来たことは本当に感謝です。今年度与えられた主題聖句の前半には「主をあなたの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」とあります。この御言葉を読み、私達は主イエスを信じ、祈り願ってはいますが、私自身、主が私の喜びになっているかと考えさせられました。結婚した、子どもが生まれた、希望する高校、大学に入学できた。主の為に働く教会を与えられた。家族や進む、進むべき道が与えられた時に、それが自分の喜びになったのは確かです。しかしそれをその都度、主が与えたと実感していたかと考えさせられました。結婚、子の誕生、入学、就任、それらには勿論、多くの人の助けがあったのは確かです。でも、自分の努力や決断が大きな要素だったとの自負があったのも確かです。ですから自分を褒める気持ちはあっても、ただ主を褒める迄には行かったのです。

 それは、自分の人生の全ての出来事に、主の意志、力、愛、慰めを本当には感じていないからではと、聖書に語り掛けられているのを感じたのです。私達は世に生きる限り、心に様々な願いを持っています。その願いを自分に向かってする人はいないと思います。私達は主を信じるので、主がその願いを叶えるように願い求めます。勿論、御心が行われるようにとの謙虚な思いを持って願ってはいます。しかし聖書は、その前に大切な事があると教え、「主に信頼し、善を行え、地に住み、誠実を養え」と言います。主を信じるとは、主を信頼することであり、主を信頼するとは、主に自分を任せることです。言い換えるなら、自分を捨てて、主に従うことです。その主は、善を行う者として、自分の周囲にいる世の人々と共に生きよと教えます。傲慢な人もいれば、自分勝手で嫌な人もいます。一つの群れの中に生きる以上、好き嫌いで相手を選べません。ですからその為には、心に誠実を養えと教えるのです。

 主に願いを叶えて頂きたいと思うなら、そのように生きよと聖書は教えるのです。勿論、人の知恵と力では不可能です。だからこそ、主は聖書を通して御言葉を私達に与えているのです。そのように生きるなら、私達は主の助けと導きを頂き、主を信じている者として、この世に人々と共に生きられます。主に知恵と力を与えられるので、心に誠実を養い、主に対しても、他の人に対しても誠実に生きられます。そのようにして生きると、自分が信じる主が自分の人生の一部となっているので、主が自分の喜びとなっている自分を知ることが出来ます。そして主に自分の願いを叶えて頂ける者となれます。

 さて、私達は何故ここにいるのでしょうか。主がこの教会に私達一人一人を必要としたからです。これもまた、聖書が私達に告げている大切なメッセージです。でも自分を見て、どこに主に必要とされるものが有るのかと思うのではないでしょうか。謙遜でも何でもない。正直な気持ちではないでしょうか。しかしです。驚いたことにパウロはそれで良いと教えるのです。彼はUコリント4:7で、自分も含め私達は土の器と言い、この土の器には計り知れない神の力を持つ福音という宝が入っていると教えます。それが私達なのです。しかしそれが時として分からなくなってしまう私達でもあります。パウロはその事を、滅び行く世の人々に対して、この世の神、サタンが覆いを掛け、その輝き、素晴らしさを見えないようにしているからと表現しています。

 主イエスを信じていても、自分を見て、何もできない自分としか見えない時が有ります。その時その私達は、世の人々と同じ危険に曝されているのです。でもと言うか、それだからこそ教会に来ているのです。主に助けて欲しい、満たされない心を満たして欲しい思うからです。主を喜んで信じている自分、教会に来たくて来ている自分に気付きましょう。何故そう思えるかと言えば、弱く迷い悩んでいる自分に、自分では自覚していなくても御霊が働き、心を照らしているからです。主イエスを信じるから、救われています。永遠の命を与えられ、神の子とされているので、万物の主であるイエス・キリストが支配する世界に生かされているのです。ですから、その主を思いつつその主に生かされている自分の心を見詰めれば良いのです。そうすれば、御霊が働き、主が見守っているから、今の自分があり、自分は生きていると感じられます。主を信じる前は、私自身も想像もつきませんでした。でも今、私の為に十字架に掛かって死に、復活した神の栄光に輝くキリストの光が私の心に輝いているのが感じられます。感謝です。私もかつてはそうだったように、世の人は私達の思い込みだと思っています。でも、そうでは有りません。私達は、約二千年前に十字架に懸かって死に、三日目に復活した主イエス・キリストが、確かに今も生きて働いていると分かったから、喜んで主を信じているのです。

 主イエスは信頼出来る方です。私達が求めれば与える方なのです。ヨハネ16:23で主は「私の名によって求めるものは何でも、父はあなたがたに与えて下さいます」と言います。マルコ10:27でも、「それは人には出来ないことです。神にはどんなことでもできるのです」と言います。私達は、世の基準や知恵と知識で物事を判断しなくて良いのです。私達は「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。叩きなさい。そすれば開かれます」と教える主イエスが共にいるからです。

 私達が掲げている今年度の主題聖句は、主がこの御言葉によって歩めと私達に示したものです。主を信じる者の群れであっても、弱さも未熟さもある私達です。でも、信仰的に成長したいと願っています。ですから、こうしたい、こうなりたいと思ってはいます。でも現実には躊躇があり、不安や疑念が心に生じてしまいます。目標が余りに高く、到達は不可能と感じてしまうからです。そして、時にその思いに縛られ、にっちもさっちもいかなくなる時もあります。ですからパウロは、私達は土の器に過ぎないのだよと教えるのです。駄目だと思わないで、私達人間が自分の知恵や力で目標を達成しようとしなくて良いと気付きましょう。前に言った通り、私達の内には既に計り知れない神の力が与えられているのです。でもこれは、主が私達に信じることを要求している事です。主はトマスに言ったように「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語り掛けています。この信仰に立ちましょう。

 私達は世の秩序、知恵や知識によって物事を判断する世界でなく、主が全てを知り、全てを支配し、全てを行う世界に生きているのです。そして、主イエスを信じれば、自分も家族も救われるとのみ言葉を信じて生きています。ですから主題聖句を心に刻み、この福音、良い知らせを人々に伝えましょう。私達の道は、地域の人や家族、友人知人が救われる道です。この道に厳しい抵抗があり、どんなに険しくとも大丈夫です。主が共に歩んでいるからです。パウロがUコリント4:8,9で言うように「私達は四方から苦しめられても、窮することなく、途方に暮れても、行き詰まらず、迫害されても、見捨てられず、倒されても、滅びない」からです。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」。主題聖句であるこのダビデの言葉を、私達への主の言葉として心で受け止め、その主に目をしっかりと留めて一年を歩みましょう。