メッセージ(大谷孝志師)
主イエスの召天と臨在
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年5月21日
使徒1:3−11「主イエスの召天と臨在」

 創世記1:1に「はじめに神が天と地を創造されたとあります。そして神が「光、あれ」と言うと光があり、神は光を良しと見、光と闇を分け、大空を造り、大空の上と下に水を分け、下の水を海と陸に分けました。そして、全ての生物と天体を造り、最後にご自分のかたちとして人を創造し、男と女に創造したのです。私達が信じる神、主は人格を持つ神です。旧約聖書を読むと分かりますが、神は常に、人との直接的交わりを通して意思を明確に示しています。そして神は、時に人の姿で、時に夢の中に現れ。ご自分の存在を人々に示します。族長と呼ばれたアブラハム、イサク、ヤコブは、何事をするにも先ず祭壇を築きました。そこに神が臨在するからです。その後、イスラエルがエジプトを脱出した時は、神は、夜は火の柱、昼は雲の柱の中にいて、ご自分が共にいることを人々に示しました。人々が荒野を放浪する間は、人々と共に移動できるようにと、主は木と布で会見の幕屋と呼ばれる聖所を作らせました。人々が神が自分達と共にいると分かり、神に礼拝を捧げられる場所にする為でした。その後神は、ソロモンに神殿を造ることを命じ、彼は主が臨在する為の壮大な神殿を建てました。しかし神殿は二度破壊され、二度再建されました。人々にとっては、神が臨在していると信じられる場所、礼拝する場所が、自分達の世界に必要だったからです。しかし、三度目にローマ帝国によって破壊された後は、今も再建されず、嘆きの壁と呼ばれる神殿の一部が、今も名残を留めるだけです。それは何故でしょうか。主が十字架に掛かって死に、三日目に復活し、主イエスを信じる者を神の子とし、聖霊が内に住む神殿、神の宮とされているからです。主の昇天を記念するこの聖日、主が自分の内に住むことの喜びについて学びましょう。

 さて、ユダヤの成年男子は、本来は年に三度したが、イエスの頃は年に一度、過越祭に神殿巡礼をしました。でも日常は地域会堂で主を礼拝していたのです。それは、バビロン捕囚の反省から、神殿で犠牲を献げることで神に喜ばれよとする物質的・祭祀宗教ではなく、聖書の言葉を学び、律法の遵守を通して主に喜ばれようとする精神的・預言宗教への転換が起き、神殿中心ではなく、会堂を中心にした地域と生活に密着した宗教に変わっていたからです。この会堂での礼拝・教育・交わりを、聖霊降臨後に生まれた教会は受け継いでいます。でも主が12歳の時、家族揃ってエルサレムに巡礼したように、エルサレム神殿が主が臨在する唯一の場所との意識が当時の人々には強く残っていました。主がヨハネが2:19で「この神殿を壊してみよ。私は三日で甦らせる」と言ったのは、十字架と復活の主の私が神殿になる、と人々に知らせる為だったのです。そして今や、パウロが言うように、教会がキリストの体として、主が臨在する所、神の宮となっています。勿論、教会は建物ではありません。私達キリスト者の群れが教会であり、神の宮なのです。

しかし、パウロはTコリ3:16で「あなたがたは神の宮であり、神の御霊が自分の内に住んでいるのを知らないのか」と言います。教会が神の宮であると共に、信徒一人一人も神の宮なのだと教えるのです。主イエスが世に生きている時、主はヨハネ14:9で「わたしを見た人は、父を見たのです」とピリポに言いました。でも、弟子達は半信半疑でした。主の言動を見れば、父なる神が主に臨在し、主が神の宮であるとは分かった筈です。しかし、人にしか見えない主に神が内在しているとは思えなかったのです。

 しかし、ヨハネ2:22にあるように、主が父なる神が内在する神の宮と彼らが分かったのは主の復活後でした。それが分かった彼らに、主は復活後40日に渡って現れ、神の国のことを教えたと使徒の働き1:3に記されています。それは何故でしょうか、理由は、主が霊の体に復活したことにあります。私達が、肉体の死後、世の終わりに霊の体に復活する場合も同じなのです。私達は、私という人格を持つ霊の体に復活します。私という人間が分散したり、目に見えないエネルギーとして存在するのではありません。私という人間であることは、誰の目にも分かり。私と人格的関わりを持てるのです。それが、私達が永遠の命を頂き、神と共に神の国に生きるということなのです。私という生まれ持つ人格が、復活した私という霊の体の内にいるからです。

 確かに私達は、主イエス・キリストの十字架の死と復活により、主を信じる者は救われ、永遠の命を頂き、神の宮として世に生きていると教えられ、そう信じて生きています。しかし、私達はこの世の生活の中で、どれだけ自分が、御霊が自分の内にいる神の宮であると実感しているでしょうか。これは霊的事実なのであり、エマオで途上で主が共に歩み、家に入っても、イエスが目の前にいると分からず、真実を見ることができる心の目が開かれて、主と分かったように、心の目が開いて頂かないと分からないのです。

 主は、弟子達に自分達が神の宮となっているという霊的事実を分からせる為に、霊の体で彼らの前に40日にわたって現れ、教えたのです。今自分達が神の国にいることを彼らに確認させたのです。しかし、肉体をもってこの世に生きている彼らは、主が霊の体で、鍵の掛かった部屋に入ってきても、主の姿は、自分達が知っていた肉体をもって生きていた姿と同じなのです。ですらマタイ28:17にあるように、ガリラヤの山で主にあった弟子達の中には疑う者達がもいたのも、当然の事だったのです。主イエスが霊の体に復活したことは、彼らにとっても信じるしかないことだったのです。ですから彼らが、肉の体で生きていながら、自分達が御霊が内に住む神の宮だという霊的事実を信じる為には40日という教育期間が必要だったのだと思います。しかしこれは最初の一歩です。

 主は、世の全ての人々が救われ、主が内に住む神の宮となり、恵みと平安に満たされて生きる為に、十字架に死に復活したのです。ですから主は、全ての人が人々が確実にこの世に生きる人が神の宮となる霊的事実が自分に起きていると分かるようにする為に、天に上り、今も神の右にいます。そして、その十日後、五旬節の日に、父なる神と子なる神である主イエス・キリスト特別されるけれど分離されない「聖霊なる神」が先ず弟子達に降ったのです。聖霊に満たされ、神の宮となった弟子達が、聖霊が降った時の大きな物音に驚き集まって来た人々に、彼らが分かる言葉で、神の大きな御業を語ったのです。この事については次週お話ししますが、今日は、先ずその準備として、主が昇天したことの私達にとっての意味を学びました。主は、パリサイ人達が神の国はいつ来るのかと尋ねた時「神の国は、目に見える形で来るのものではありません。…神の国はあなたがたのただ中にあるのです」と言いました。彼らは主イエスがいるので、今、自分達が神の国にいることが分かりませんでした。私達は今、主が私達に内に住む御霊を与え、神の宮として世に生かされているのです。私達はこの霊的事実を自覚しようとすまいと、自分に起きていると信じ、受け入れましょう。主は、私達が神の宮として、世の人々に主の救いの御業を知らせる者となるようの求めています。この主の思いと御業を心に刻み、御心を行う者になりましょう。