メッセージ(大谷孝志師)
キリストを着て生きる
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年5月28日
ローマ13:11-14「キリストを着て生きる」 牧師 大谷 孝志

 人は混浴の露天風呂に入る時以外は、必ず何かを着る。アダムとイブは「ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった(創世記2:25)」が、私達は恥ずかしいと思うから。しかし、服は恥ずかしい部分を隠す為だけのものではない。

 制服にあこがれる人がいる。自分がなりたいと思う職業の制服は憧れの的に。その制服を着る為に一生懸命に勉強もする、生き方や考え方を変える人もいる。また、制服を見るとその人の仕事も分かる。医師や看護士、警察官、消防士、市や交通機関の職員、スーパーや食堂に勤めている人だと分かる。新郎新婦も一目で分かる特別な衣装を着る。卒業シーズンに袴姿の女子大生の華やかな姿を見ることもあり、入社時期には新入社員の新しいスーツ姿に彼らが抱く感慨を感じることも。私は子供の頃、大晦日の枕元に置かれた真新しい下着ときちんと畳んだ服を着るのが元旦の大きな楽しみだった。そのように、新しい人生に踏み出す自分を他人に示し、今までとは違った自分を自覚する為に、人は服装を新たにする。

 昔、中高生が「先輩!」と声を掛け、深々と礼をする光景を見たことが。クラブ等に入ると、目に見えない「先輩」「後輩」という服を着る。また、学生、社会人、係長、課長、部長になった人への「らしくなりましたね」という褒め言葉を聞くことも。「らしさ」という見えない服もある。人は、目に見えない服を着ている。

 パウロは「主イエス・キリストを着なさい」と言う。この「キリストという服」も目には見えない。このキリストという服には、私達を内側から新しくする特質がある。私達は「私はキリスト者」という名札を付けていれば、自分がキリスト者だと人々に知って貰えるのではない。バスの運転手も、制服を着たから運転手なのではない。その資格があるから運転手。見えない運転手の資格をその服が表す。同じように「キリストを着る」ことで、私達は自分がどんな人かを表す。自分がイエス・キリストのように生きる人と表す。相手は私達の何を見てそれが分かるのか。主のように、言葉や口先だけでなく、行いと真実をもって愛し合うという目に見える行為で、相手に主が感じられるように生きることによって。

 さて、キリストを着る為には古い自分を脱ぎ捨なさいと、パウロはエペソ4:22で言う。何故、古い自分を脱ぎ捨てることが必要なのか。古い自分を着たままだと、主のように人々を愛そう、主に喜ばれたいと思う自分を、どんどん主から離れる方へ引っ張って行き、人よりも自分を愛する方を大切にさせるから。その生き方は、主が私達に望む生き方ではない。人々に主を感じさせる生き方ではない。古い自分は闇の世界。自分という殻に閉じこもる世界。パウロは「闇の業を脱ぎ捨て、光の武具を身に着けよう」と言う。古い自分を脱ぎ捨て、信仰的に眠ったままの自分を目覚めさせ、主が共にいる自分を意識しよう。それが新しく主イエス・キリストを着ること。その時、相手である世の人々にキリストが共にいる自分を感じて貰える。何故キリストを着ることが必要なのか。私達は信仰的に眠ったままではいけない。聖霊に満たされ、眠りから目覚め、主の証人として、新しい人として生きる時が近付いている。十字架と復活の主が「目覚めよ」と語り掛けている。「私を着て、私が生きたように、世に生き、私が命じたように、全ての人に福音を宣べ伝えよ」と。キリストを着て、自分が先ずキリストを信じる喜びに生きよう。その私を通して、世の人々がキリストを着、全ての人に与えられる恵みと平安を頂き、救われた者として喜んで世に生きる者となれるのだから。