メッセージ(大谷孝志師)
私達にも出来ます
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年6月4日
使徒3:1-10「私達にも出来ます」

 今日の箇所には、私達と同じ弱さと限界を持つ人間として世に生きた使徒達によって行われた聖霊降臨後最初の奇跡が記されています。この奇跡を通して、主イエスを信じる私達には今何が出来るのか、私達は主によってどのような者とされてこの向島キリスト教会に生きているのかを共に学びます。

 ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に神殿に上りました。彼ら使徒達を始め主の弟子達は、聖霊に満たされ、ユダヤ人達が十字架に付けて殺したイエスが、主キリスト、神の御子と彼らに教え、悔い改めて、バプテスマを受け、自分達の仲間に加わるよう勧めていました。ユダヤ教徒とは一線を画していたのです。ただ、彼らが真の神について知らないだけで、ユダヤ教が間違っているのではないと知っていました。ユダヤ教徒としての信仰生活を守っていたので、午後三時の祈りの時間に、彼らは神殿に上って来ました。

 彼らが宮に上って行くと、そこに、宮に入る人達から施しを貰う為に宮の門の所に置かれる足の不自由な人が運ばれて来た。この人は二人が宮に入ろうとするのを見て、施しを求めたのです。二人は彼を見つめて「私達を見なさい」と言いました。二人は、彼に与えられるものを自分達が持っていると知ってたからです。言われた彼は、お金を貰えるのかもと期待して、二人をじっと見つめました。しかしペテロは、「金銀は私にはない。しかし私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言ったのです。ペテロが不自由な足を癒す力を持っていたのではありません。彼が持っていたのは、主の御名を信じる信仰です。ヨハネ16:23で主が「私の名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます」と言った主の約束を信じる信仰です。ペテロがそのみ言葉を信じ、主の名によって父なる神に求めたのです。主イエスが人として世に生きていた時、神がイエスの願いを叶えたように、イエスの名によって求めるものを神が与えると信じる信仰により、彼らの願いに応えた神が、生まれつき足の不自由な人の足を癒したのです。癒された彼は、歩いたり、躍り上がったりしながら、神を讃美しつつ、二人と一緒に宮に入って行ったのです。その彼を見た人々は、ものも言えない程に驚きました。そして、彼がペテロとヨハネに付きまとっているのを見て、ペテロら使徒達に言葉によって、驚くべき不思議な事、奇跡が起こったと知り、彼らの所に駆け寄ってきました。

 この生まれつき足の不自由な人は、彼らが主の弟子と知って、主イエス・キリストに癒しを求めたのではありません。生活の糧を期待して二人を見つめただけです。彼には信仰的なものは何も見出せません。しかし二人はこの人の内に歩けるようになりたい、施しを受けなくても生活できるようになりたいとの願いを感じ取ったのです。そして、主の約束を信じ、主の御名によって願えば父は叶えると信じる自分達を用いて、神は癒すと信じたのです。この信仰が主を信じる私達に必要と聖書は教えています。しかし悪魔は、その信仰は真実かと、私達に常に囁き掛けてきます。お前はこれ迄、それを信じて、主に求めてきて与えられなかったことは無いか。今、病に苦しむ人の為に主の名によって願えば叶えられると本当に信じているのかと。マルコ9章の父親のように「信じます。不信仰な私をお助け下さい」と言えずに、様々な理由を付けて現実から逃げようとしている自分が嫌で情けなくなる時もあります。祈っても叶えられない事実を数多く経験している自分だからです。

 ですから私は、癒しでなく、お金の施しを期待しただけの人を癒したペテロらによる癒しの出来事に大切な事を教えられした。聖書には聖霊降臨後に、ペテロの説教と勧めを受け入れた多くの人々が救われ、三千人程の人々が救われたと記されています。御霊が働いているからです。彼等は、今も受け継がれているように、使徒達の教えを守り、御言葉を聞いて実践し、主にある交わりを大切にし、パンを裂き、聖餐式を守り、祈りをしています、これが最初の教会の姿です。確かにここには驚くべき教会の姿が記されています。この教会では、全ての人に恐れが生じ、使徒達によって多くの不思議としるしが行われ、聖霊に満たされ生き生きと神を讃美し、一つの群れとなって、互いに助け支え合い、民全体から好意を持たれていたのです。

 しかしこれは、単に全ての教会が目指すべき教会の姿として記されているのではありません。どのような教会でも、その教会はキリストの体である教会のなので、この出来事が起こり得るし、それを目指す為に、その地に建てられているのです。私達も教会に集まり、聖書の御言葉を聞き、実践を志し、主にある兄弟姉妹の交わりを大切にし、聖餐式を守り、祈りを合わせています。教会が神の宮であると共に、連なる一人一人が御霊が内に住む神の宮となっているからです。しかし現実には最初の教会と私達の教会は遠く離れていると思います。 ではどうしたら、最初の教会のようになれるのでしょうか。聖書は、ペテロによるこの癒しの奇跡とそれを見て驚愕した人々やユダヤ教の指導者達へのペテロ達の対応を記すことで、主を信じて救われ、賜物として聖霊を受けた私達も、最初の教会の人々のように、生き生きと神を讃美し、人々から好意を持たれるよう、信徒としての生活を主が守り導くので、主を信じ救われる人を加えて下さると教えています。私達にも出来ると教えているのです。

 信仰は力と知りましょう。福音の素晴らしさ、それは主イエスを信じ救われ、喜んでいる私達の言葉と行いによって明らかにされます。十字架と復活の主イエスが私達と共にいて働いているからです。確かに、私達にも世の人々の目にも臨在の主は見えまえせん。声も聞こえません。聖書は、ペテロの言葉によって起きた事実を私達に知らせること、私達を奮い立たせようとしています。マルコ9:23の「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです」との主の言葉の御前に私達を立たせ、私達に信じる者となれと語り掛けています。心を静め、主の御声に耳を傾けましょう。

 この奇跡は、これを見た人々を驚愕させました。それだけではありません。4章に記されているのように、主は使徒達をユダヤ教指導者達の前に立たせ、彼らに主イエスを信じる信仰の確かさを表す機会を与えました。私達主イエスを信じる者は、福音宣教の働きを阻もうとする悪の力との闘いの場である宣教の最前線に常に立たされいます。使徒達は世の権力者達に脅されても、堂々と彼らに立ち向かい「この方以外には,誰によっても救いはない。この名の他には、私達が救われるべき名は人には与えられていない」と大胆に主イエスについて証ししました。今は福音を宣べ伝えても,この時や昔の日本のように捕らえられ、迫害を受けることはありません。しかし、悪魔は私達の心に疑念を引き起こし、躊躇させます。しかしパウロがローマ10章で言うように、宣べ伝える者がいなければ、人々は救われあせん。主の豊かな恵みを受けられないのです。私達も「自分達が見た事や聞いた事を話さないわけ人は行かない」と言ったペトロとヨハネのように、自分が信仰生活の中で見聞きし、味わっている主の恵みと力を大胆に証しする主の証人となりましょう。