メッセージ(大谷孝志師)
今が恵みの時
小豆島バプテスト教会 礼拝説教 2023年6月11日
Uコリント6:1−2「今が恵みの時」

 この教会に招かれ、御言葉を説き明かす機会をまた与えられ感謝します。佐農先生夫妻の辞任後、無牧の時、講壇交換でご奉仕させていただきました。今回は部会委員長として来ました。無牧という重荷を負い、苦労している皆様を覚えてお祈りをしています。 皆様の教会もキリストの体であり、キリストのものです。主が教会の皆様を愛し、護り、良き道を備えて下さいます。一時、中家先生が広島から通い、良い働きをされましたが、今は井上先生が関わっていては下さいますが、無牧ではあり、ご苦労が多いと思います。昔、仲先生がいた頃は、幼児教育もされ、賑やかな時もあったと思います。

 どんな状況に見えたとしても、教会は主の御手の内にあります。皆さんにとって全ての時、全ての日は、パウロがUコリント6:2で言うように「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」なのです。主イエスを信じる者にはこの御言葉が与えられているのです。この御言葉に立ってどのような時でも、主が与えている道と信じて歩む者になりましょう。

 聖書を読むと、人生には順境の時も有れば、逆境の時も有ると教えられます。その人の信仰が問われ、自身の本当の姿が現れるのは逆境の時だとも言われます。主は人に様々な試練を与え、その中で、ご自分がどんな方であるか、人は何者で有るかを知らせています。旧約聖書に登場する人達はそれぞれ困難を経験しています。しかしその中でもヨブ記に記されているヨブは際立っています。ヨブは全てに恵まれ、主の豊かな祝福を戴いて日々を過ごしていました。しかしある時、凄まじいばかりの災難が彼を襲いました。彼の財産が全てが襲ってきた者どもに奪われ、神の火が天から降って羊や若い者達を焼き殺しました。更に大風が吹き、家の下敷きになり、息子娘達も亡くなりました。それだけでなく、彼自身も悪性の腫物に体中が覆われ、酷い苦しみを受けます。彼はその病いの中で苦しみに喘ぎました。自分の生まれた日を呪いました。しかし彼は死にたいとは思っても、自殺は考えていません。そうではなく、神に私を殺してくださいと訴えたのです。何故でしょう。それは自分の生も死も,全ては御心によらなければ、起きないことを知っていたからです。豊かな祝福を与えてきたのも神であれば、この酷い災いを下したのも神であると知っていたからです。

 私はキリスト者になって60年になりますが、かなりの間、主を試みていたように思い、反省しています。丁度子どもが親の愛を確認したくてするように、わざと悪い事、人の嫌がる事をしてみたりしました。これくらいは大丈夫かとか、これはしてはいけない事なのかとか、親の反応を探ったのでした。今思うと、それと同じ様な事を主に対してしていたような気がします。私は一人っ子でしたので、親は欲しいものを買い与え、高いお金を払って塾にも通わせてくれました。ヨブとは違い、あまりに順境に置かれたままの状態に自分を吟味することを忘れ、したいままに生き、自分のあるべき正しい姿を見失っていたのかもしれません。教会に行くようになり、キリスト者になっても、自分の本質はあまり変わりませんでした。主は正しく、善を喜び、悪を憎む方と信じていても、どうしても善悪を考えるよりも、自分がしたいかしたくないかで,言動を決めていました。神学校に行くようになってからも、主が自分の行いを見ていたとしたら、すぐに私を滅ぼすだろうと思う事をしている自分なのに、どうして主は私を滅ぼさないのだろうと考えたこともありました。それでも神学生だったのかと思うかもしれません。でも、その自分の心の底に流れていたのは、主が全てを支配していることを信じ、どんな事でも主に全てを任せきれるような信仰者に自分はなりたい、との思いがあったのだと思います。自分なりに純真な思いでいたのだと思います。主はそのような私を温かな目で見守り続けていたのです。だからこそ、今の自分があるのだと、心から感謝しています。

 主は人の良い所も悪い所も全てご存じの上で、その人と共に歩み、その人を深い愛で包み込み、世に生かしていて下さるのです。私もこれ迄様々な逆境に置かれたことがあります。それは主の私に対する愛の鞭だったのだと思います。逆境の中、自分の知恵や力ではどうにもならない状況の中で、私を主の御前に立たせ、自分が罪人であることを知らせれたのです。自分にとっては非常に苦しい時でしたが、その経験しなければ分からなかったことを知らされました。別に法律的に罪を犯した訳ではありません。でも、人としてしなければならない事をせず、してはいけない事をしていたのです。子どもの時のように、これくらいは大丈夫と、したりしなかったりしていました。

 主はその私を憐れみ、慈しみの目で見ていました。ですから、私は世に生き続けていられました。しかし、私はそのままでいてはいけなかったのです。そのままでは主の愛に生き。福音に生き、福音を人々に伝える者としては、相応しくなったからです。神学生として、牧師として生きてはいました。人の相談に乗り、礼拝で説教もしていました。しかし、本物の主の証人になりきれていなかったのです。勿論、今の私、様々な逆境を乗り越えてきた私が本物の主の証人として胸を張れる者になっている訳ではありません。まだまだ成長途上にあると思っています。主を信じ、主に従って生きる者は、世の終わりの日、自分のこの世での命の終わりが来るまでは、良く言えば、成長途上です。しかし、それは同時にいつでも不十分ということを意味します。それは,この教会についても,この教会の皆さんについても同じ事が言えるのではないでしょうか。
 人は現状に不安があり、将来に希望が持てないと思い始めると、悲観したり、自分や他人に責任転嫁をしたくなります。しかしそれは、私達が信じ、従っている主の御心ではありません。パウロが言うように「なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日なのです。これこそが私達が立つべき所です。この御言葉、この信仰に生きましょう。どうぞ見方を変えて下さい。自分や他人という人を見るのではなく、主に目を注ぎましょう。確かに人は弱く不十分です。パウロも言うように、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行ってしまう者です。しかし私達は教会に招き入れられ、キリストの体の一部とされているのです。キリストのものとされているのです。自分達をどう見ようと、今の時をどう考えようと、今や、恵みの日、今こそ、救いの時なのです。この御言葉を、自分達に向けて主が語り掛けている御言葉としてお聞き下さい。主を信じる私達は「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。誰でも求めるものは受け、探すものは見出し、叩く者は開かれます」と言う主を信じているのです。でも。そう主に言われてもできないとは思わないで下さい。そう思う自分を見て、駄目だと思う必要はないのです。主はそのような私達の為に十字架に掛かって死に、復活して、今も私達一人一人と共にいて下さいます。迷い易く、躓き易くても大丈夫です。主はその私達の全てを知り、全てを受け入れて共にいて下さいます。感謝しましょう。

 エレミヤ書29:11-12を読みます。「わたし自身、あなたがたの為に立てている計画をよく知っている―主の言葉―それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたが私に呼びかけ、来て、私に祈るなら、私はあなたがたに耳を傾ける。あなたがたが私を捜し求める時、心を尽くして私を求めるなら、私を見つける。」主も「あなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか」と言います。主は生きておられます。主に求め、主に与えられる恵みの日、救いの時と信じ、自分達の道を歩み続けましょう。