メッセージ(大谷孝志師)
新しい人に成る目的
小豆島バプテスト教会 礼拝説教 2023年6月18日
コロサイ3:12-17「新しい人に成る目的」

 私達は、主イエス・キリストを救い主と信じ、神の子とされ、永遠の命を戴いています。救われた私達は、古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を着ているとパウロは言います。主イエスを信じ、信仰を告白し、バプテスマを受けた私達は、それ以前とは全く違う生き方をする人となっているからです。とは言え、新しい自分を着ていながら、古い自分を脱ぎ捨てられずにいるのが、現実では無いでしょうか。でもある時、自分の生き方、相手の生き方についての自分の思いにハッとすることがあります。それがキリスト者の現実なのです。誰でも、自分の今の生き方は仕方がないと思いながらも、このまま続けるのでは無く、主イエスを信じ、主のように生きたいと思い、そのように生きている先輩のキリスト者を見て、自分もそのような新しい生き方をしたいと思うからです。主はマタイ5:48で「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」と言います。私達は、主イエスを信じ、救われたので、完全を目指すことが出来る人に変えられているからです。

 それをパウロは「古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着た」と表現しているのです。自覚しようとしまいと、私達はその現実の中に生きているからです。それが救いの出来事であり恵みなのです。何故、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着られたのでしょう。主イエス・キリストが十字架に掛かって死に、私達の罪を赦し、救いの道を開いたからです。ですから、私達は教会に来て、福音を知り、主イエスを信じて、できたら主のように生きたいと思い、その世に生きている先輩キリスト者を見て、自分もなりたいと思う私達の願いに主が応えてくれたからです。私達が主によって、神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者とされているからです。

 主イエス・キリストの十字架と復活により、全ての人を救う神の計画が実行に移され、新しい時が始まっています。その時の流れが、日本に到達し、この向島にも届いています。とは言え、日本のキリスト者人口は1%前後、家族の中で自分だけが来る方が多いのが現状です。ですから、この全ての人を救う神の計画実行の為には働き人必要なのです。しかし、この計画実行は不可能なのではありません。何故なら、主の十字架と復活により、神の救いの計画が実行されているので、世の人が教会に来て、福音を聞いて信じ、主イエスが自分の内に住む者となるなら、その人も自分の内にキリストがいると分かるからです。でも世の人々は、教会に来て福音を知り救われた以前の私達のように、その事実に気付きません。ですから人々が、私達の内にキリストがいることを先ず知ってもらうことが必要なのです。私も教会に来て、先輩のキリスト者に出会い、この人やこの人達の内に主イエスが生きて働いていると知りました。そして、この人達のように主イエス・キリストと共に生きられたら素晴らしいと思ったのです。私もキリスト者になりたいと思い、教会に熱心に通い始め、主が私の思いに応え、主が私と共にいると知らせてくれたのです。私はキリスト者になり、今も喜んで主と共に生きています。私達も新しい人になれば、主イエスと共に生きるその素晴らしさを、世の人に伝えられます。神は人々が私達を通して、その素晴らしさを知り、自分もキリスト者に成りたいと思って救われる為に、神は私達を選び、自分達も、神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者と世の人々が知り、教会に来て、主イエスを信じる者となるよう、私達を選んだので、私達は今ここにいます。

 私達は教会に来て、神がいること。神が私達の天の父であるこをと、御子をイエスキリスト、世の救い主として遣わしたと知り、信じました。主イエスを信じ救われた私達は、聖霊の働き掛け、助け、支えによって、神に祈り、自分に示された御言葉を聞き取れること、神が信頼でき、全てを委ねられる方であることを教会生活の中で体験的に知っています。神との人格的関係を持てているからです。ただ神社仏閣に参拝し、何となく安心するので無く、神に恵みと平安を与えられている自分を実感できるのは素晴らしいことです。

 しかしパウロはここで、受けるよりも与える者になりなさいと教えいます。これは恵みの連鎖、祝福の連鎖です。私達は受ける為に与えるのではなく、主イエスから、多くの先輩キリスト者から受けたから、まだこの恵みと祝福を知らない人々に与えているからです。神に愛されていることを実感していると他の人にも自分が神に愛されていることを実感して欲しいとの思いが生まれてくるからです。主は弟子達に「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」と言いました。でも、主に言われたからだけでなく、本当に全ての人にこの福音が必要だと実感することが大事なのです。 ですから、パウロが言うように「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている」自分を実感しましょう。そして「深い慈愛の心、親切、謙虚、柔和、寛容を」身に着けましょう。これは皆、他者にする事、他者に接する時の私達の姿勢についての事です。父なる神、主イエスにだけ心を向けていれば善いのでなく、自分が接する人に、父なる神、主イエスのような思いで、父なる神、主イエスに接する思いで接し、相手の思いを自分の思いとして受け止めなさいとパウロは教えているのです。自分の力でこれをしようと思ってもとても不可能です。だから「古い人をその行いとともに脱ぎ捨て、新しい人を着なさい」と彼は教えるのです。私達も教会に来て、その新しい人を着た人と出会っているのです。勿論、長所も欠点もある人達でです。私達と同じ人間だからです。でも教会の交わりの中で共に生きる中で、この世の人達とは違う何かを感じ取り、このような生き方をしたいと思う魅力を感じたからだと私は思います。勿論、世の中にも素晴らしい魅力を感じる人達はいます。しかし私は先輩キリスト者には違うもの感じ取りました。それは先輩達の内にキリストが共にいたからだと後で分かりました。私の内にいると分かった時、私も出来る、私も新しい人を着ているので、自分も主のように生きられると分かったのです。これは信仰の奇跡、恵みの奇跡です。

 この奇跡は、私達に起きたように、私達と出会う人にも起きます。主は生きて働いているからです。その人が、聖霊の働きにより、その主キリストが自分の内にもいると知り、新しい人として生きられるようになるからです。主キリストを信じ、救われるという信仰の奇跡、恵みの奇跡は、ここが教会であるなら、主キリストがいるので必ず起きると信じましょう。しかしそれだけでは十分でありません。新しい人になったなら、私達を赦した主のように、互いに忍耐し合い、相手に不満があっても赦し合いましょう。でも人と人を結ぶ絆は弱いです。ですから全てを結び合わせる絆となる主の愛を身に着けましょう。自分の力に頼らず、自分に注がれた主の愛で相手と接すれば良いのです。私達が新しい人と成り、主の愛によって人格的にしっかり結び合うなら、主キリストが自分と相手の内にいることで成り立つ人格関係の素晴らしさが世の人に伝わり、新しい人や家族が教会に加わり、教会が成長します。新しい人と成り、主を心から信じ、互いに主に仕え合いましょう。それを主が私達に望むからです。