メッセージ(大谷孝志師)
新しい人として相手を見る
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年6月18日
Uコリント5:16-19「新しい人として相手を見る」 牧師 大谷 孝志

 縁談について考えたり、商談をまとめようとする時や友達や恋人、夫や妻との間に溝を感じた時、相手の心の中が分かったらどんなに良いかと人は思う。実は、人は相手の心の中が分からないから生きていける。もし分かったら、とても生きてはいけないと私は思う。人の心は微妙に、それもめまぐるしく動いているから。自分一人の心に対してなら、何とか対応できるが、家族皆の心や学校、職場、地域の一人一人の心と対応していたら、どうにかなってしまう。だから、私達は、相手がこう思っているとだろうと考え、自分の心の中で相手と対応し、そこで判断した結果を自分の言動に表している。また、自分が見聞きする相手の言動から、心の内を自分の経験、知恵、知識によって推し測って、やはり自分の言動で表す。だから、相手を知っているようで、実は全く知らない、と言うのが私達の現実。

 パウロは、このような私達を肉に従って人を知ろうとしていると表現している。相手を全く知らないのに、知っていると思い込むから、時として関係がこじる。どうしても色眼鏡で見てしまうから。特によく知っていると思っている相手を白紙のような心で見るのは本当に難しいことだと思う。自分の心に映る相手の外面しか見えないので、自分が知る相手の過去に神経質になり、幾ら相手が本当の自分、新しい自分を見て欲しいと思っていても、なかなかそれができないのが人間。

 パウロもそれで大分苦労をした。教会を強烈に迫害した主要人物だったから。キリスト者になってからも、その過去のことで警戒されることが多かったようだ。それに彼の手紙を読むと、強い個性の持ち主で、それも誤解される原因だった。それは兎も角、彼が主の弟子達を迫害したこと自体、思い込みの悲惨さを表す。彼らを迫害したのは彼らの心の内がわからなかったから。だから正しい関係が持てなかった。しかしこの手紙から分かるように、彼らと正しい関係が持てている。何故か。神との和解ができたから。和解とはよりを戻す事。和解するの原語は、背を向けずに互いに向き合う意味を持つ。神は人をご自分と向き合う者として創造した。しかし人は罪を犯し、神に背を向けてしまった。その状態が回復され、人が神を信じ、救われる者となることが神と和解すること。私達は神と和解し、神と正しい関係を持つことにより、背を向けずに、相手と向かい合う正しい関係を持ち、相手と心が通じ合え、共に生きられる第一歩を踏み出している。主イエスの十字架と復活の出来事により、古いものは過ぎ去り、全てが新しくなったから。

 人はどうしても古いものに縛られ、相手の過去に囚われがち。でも相手には今の自分、新しくなった自分を見て欲しいと思う。相手は過去がこうだから、またこうするに違いないと考える。自分は心機一転したからもうそんな事はしないと考える。人間とは勝手なもの。これでは相手との正しい関係は持てない。だから、自分が主イエスの十字架と復活により新しい人となったので、、相手がこうしたい、こうなりたいと思うその思いを知ったら、相手の過去に囚われずに大切にし、相手と共に生きる自分になろう。それは自分にとっても相手にとってもとても良いことになる。

 人は過去を引きずりがち。パウロは「見よ、全てが新しくなりました」と言う。キリストにあって新しく造られた自分を信じることから始めるなら、相手をも同じ主にあって新しくされた人と見られる。和解し合い、相手と真っ直ぐ向き合い、相手をそのまま受け入れ合う関係が成立する。キリスト者はいつも新しい関係を保ち続けられると信じ、共に生きよう。主が喜ぶ教会の交わりがそこにあるから。