メッセージ(大谷孝志師)
執着から解放される為に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年6月25日
伝道の書3:9-15「執着から解放される為に」 牧師 大谷 孝志

 人にとって「時」は大きな意味を持つ。人は時をどう使うかによって。ある出来事が長く感じられたり、短く感じられたりする。また、人は生まれてから様々な時を経験している。時とは何か。私達は今、向島キリスト教会夕礼拝と言う時を経験している。この時は今も流れている。私という存在と時と所の三つは密接に結び付いている。更に、私の時と他の人の時についての考え方は同じではない。人は、どこに行こうか、いつ行こうかと、時と所を選択できる。どんな時にしようか、その所をどんな雰囲気や状況にしようかと考え、実行に移せる。とは言え、思い掛けない出来事に遭遇したり、他人の言動で思い掛けない方向に事態が進展したり、中断したりすることも。人の心がままならないように、時もまた自由にならない。例えば、受験し、合格の時を味わいたくても、不合格であればその時を味わえない。生まれる時も自分で選べないし、死にたくないと思っても、死が突然決まったり、来ることも。いつ迄もこの幸せをと願っても、突然状況が変わることも。時とは本当に不思議なものと言える。

 著者は「空の空、すべては空」と言う。この空は仏教で言う空と違い「空しい」という意味。彼は自分の過去を振り返り、自分の存在に意義がないと気付いた。 勿論、彼は自分の時を使い、優れた仕事、偉大な王と呼ばれるに相応しい仕事をしてきた自負はある。彼は成功者に成り、人生を振り返り、充実感を味わえると思った。しかし過去と将来を展望した時、一切が空しいことを知ってしまった。

 私達は人生はどうか。私達は自分の人生に何か意味を見出し、意味を持たせて生きてきたのでは。生きる為に生きて来たのではない筈。人は生きる意味を見失ったら、全てが空しくなり、行き詰まってしまう。そのような人がニュースになることがあり、人は誰もその危険を内に持っていると言える。だから著者は、徹底的に空しさを知った者として、時の流れに流されて自分を見失うのではなく、或いは、時に縛られて空しい労苦を積み重ねるのでもなく、神が人に授けているもっと自由で喜びに満ちた生き方が人には出来ると、自分の経験を通して教える。

 人は誰も幸せに生きたいと願い、それを実現しようと努力する。努力すればする程、実現の確率が高くなると思うが、努力だけではどうにもならないのがないのが現実。そこに執着が生じ、人を押し退け、傷つけても実現しようとする人も。しかしそうして、たとえ人が羨む成功を手にしたとしても、そこに真の喜びはなく、残るのは空しさだけと、著者は見抜く。本当の喜びは、日常の中、家族や友人知人と楽しい交わりが続けられることの中にあると著者は言う。言い換えれば「日々是口実」の生き方が最高となる。物や人に執着し、それが無いと幸せでないとの考えは、自分の内や周囲にある幸せを見過ごさせ、或いは潰す結果に。周囲を見よう。全ての事には時がある。目標に執着しなくても、必要ならその時は必ず来る。一寸先は闇と思い、今自分が何とかしなくてはと思うと、執着、焦りが生じ、自分が時を支配できる錯覚に陥り、身動きが取れなくなってしまう。

 それより、時の流れの中で、神が全てを支配し、守り導き、意味を与えていると信じればよい。時は神のもので、全てその時に適って美しいと思えると、人は他の人や物事への執着から解放される。良い時も悪い時も、好きな時も嫌な時も、飛び込みたい時も目を背けたい時も、全てを感謝を持って受け止め、その時の中で生きられる。この生き方が主イエスを信じる者に与えられる素晴らしい生き方。