メッセージ(大谷孝志師)
自分の弱さを誇る私達に
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年7月2日
IIコリント12:1-10「自分の弱さを誇る私達に」

 先日有る兄弟が、礼拝前の讃美の時間に「自分は今日の個所の御言葉によって、自分の弱さ喜んで誇れるようになった」と証しました。この手紙を書いたパウロは「私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます」と言います。彼が福音を伝える生活の中で「弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難」に遭っていたことが、11:23-33に記されています。彼はそこに、福音宣教活動の中で体験した自分の弱さから生じた数々の苦難を記しています。彼はピリピ4:11を見ると「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。」と言います。更に4:13で「私を強くして下さる方によって、私はどんなことでもできるのです」と言います。しかし彼が体験した労苦は「たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中で裸で過ごしたこともありました」というもので、簡単に「満足しています」と言えるようなものではありません。しかし、彼はそう言い切ります。何故そう言い切れたのしょう。11,12章で彼はで自分の弱さを強調しています。彼は福音宣教活動の中で、自分の弱さを徹底的に感じさせられていますが、自分の弱さに押し潰されていません。彼は、主が弱い自分と共にいて助けていると知るからです。ここに私は主イエスを信じる者の強さを見ました。主は、福音を宣べ伝える者を苦難、艱難の中に放置しないのです。パウロ、そして私達を福音を宣べ伝える者に選び、世の人を悪の力から救い出す重要な使命を与えたのは主だからです。

 しかし、福音の前進を阻もうとするその悪の力と闘う時、彼が11:23-33で記しているように、多くの苦悩、苦難に直面しなければなりません。しかしこの手紙を書いている時の彼は、その中で自分が使命を果たせるよう主が全てを整え、助け導いたからこそ、今の自分があると知っています。私達も福音を世の人々に伝えたいと思い、自分なりに奮闘していますが、なかなか実を結ばないことに心を奪われるのではなく、その中で闘っているからこそ、感じ取れる私達に注がれている神の愛と恵みに気付きましょう。福音宣教は世の人の為ですが、私達の為でもあるのです。

 パウロは、主の証人として世の人々に福音を伝える為に全世界に出て行きなさいとの主の命に従っています。しかし彼は投獄され、鞭打たれ、死ぬような目に何度も遭っています。彼も人間です。主の為、人の為にこんなに懸命に生きているのに、何故こんな目に遭わなければいけないのかと思ったこともあっただろうと思います。しかし使徒の働きや彼の手紙を読むと、彼は祈りの人です。主がいつも共にいて、全てを知り、助けると信じています。そして、苦難に遭った後で、全ては御心であった知らされ、苦難に遭ったからこそ、主の力と恵みを味わえた、と主に感謝しています。しかし、私達もそうですが、苦難の中では、苦難の原因は自分の内にあったと考えてしまうことがあります。自分の判断力、行動力、洞察力の無さから、行った場所の危険性や上辺を装う相手の心を見抜けなかったことを、自分の弱さとして痛感させられる時が、パウロにしても有ったのではと私は思わされたからです。

 11章前半はから彼は何と強い人間なのかと感じさせられます。しかし今回は、私には想像も出来ない苦難の中を歩む彼の弱さについて深く考えさせられたのです。彼は避けたいと思っても避けられない自分の弱さを感じながらも「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と言うのです。主の御前にいる自分を知るからこそ、自分に満足しているのです、本当に素晴らしいです。

 しかし、私自身長年牧師をしていても、出来ない自分に嫌になる時があります。友人の牧師の中には、説教に苦労しているよと話す人もいます。でも、私は、準備はそんなに苦労ではないと言うより、むしろ好きな方なのです。でも、信徒や求道者の人、地域の人と話した時、何であんな事を言ったのか、何故こう言えなかったのか、どうしてしてしまったのか、しなかったのかと、反省することが良くありました。落ち込んでしまい、パウロのように自分の弱さに潰されずに前向きに生きられたらと思ったものです。でも、「パウロのように」と思う時、私は人を見ていたのです。人を見ているだけでは、羨ましいとか、自分は駄目だと思うだけで前は向けません。上を、主を見上げなければ駄目なのです。上を向けば、パウロが特別な人間ではないと気付けます。聖書はそう教えているからです。彼にその生き方が出来たように、誰にでも出来る可能性があるし、事実そうして立ち直っている人は沢山いるからです。彼の場合は、12:1-7aに記された出来事があったからです。これは常人には考えられない程の素晴らしい体験です。私は事実と信じます。彼が嘘を書く筈はないからです。なぜなら、彼ほどの体験ではありませんが、私達もまだ主イエスを信じられない家族や知人に福音を伝えたいと思っても、なかなかできない自分の弱さに打ちひしがれている時、不思議に信仰の話が出来る時があったのではないでしょうか。御言葉にはっとし、力が湧き、自分に出来る事があると気付いた経験があるのではないでしょうか。しようと思ってできたのでも、前から考えていたからでもなく、聖霊が働くからこそできた事なのです。その経験、霊的経験が私達を強くし、立ち直らせています。

 主が私と共にいると実感することは素晴らしいことです。主が私を愛し、家族や知人を愛していると心で感じられると、前を向けるし、困難に耐えられるだけでなく立ち向かえます。人は、肉体的精神的、人間関係や将来の事などで、困難、苦難を抱えることはあります。自分の弱さ、足り無さを意識させられてしまい、辛く苦しい時です。その時こそ、上を見上げましょう。聖書を読み、祈りましょう。主に心を向けましょう。主が自分と共にいる、自分を愛していると気付きます。共にいて、自分を見詰め、愛している方に、気付きます。私達が信じる主イエスです。その事に気付き、主が共にいると信じると、不思議な力が自分の内にあるのを感じます。必ずこれに耐えられ、生きていられると希望を持てます。これが主キリストを信じる信仰の素晴らしさです。それも自分の弱さを自覚し、その弱さにさいなまれるような時でも、逆に、その弱さに感謝し、弱さに立ち向かう自分を人に示せるのです。

 しかしそれだけではありません。パウロは、苦難の中で分かった自分の弱さの他にも、弱さを自覚せざるを得ないものが有りました。彼の肉体に与えられた一つの棘です。それが何かは聖書に書かれていません。彼は「それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです」と言います。「サタンの使い」と彼が言うのは、自分が福音を宣べ伝える時に障害となるものです。でも彼は、それを神が与えたと言います。自分の働きが豊かな実を結ぶと、つい神ではなく自分に目を注いでしまう弱さを人は持ちからです。棘を感じたら、その弱さを神に指摘されたのだと受け取りましょう。ヘブル12:7のように、神が自分を子として扱い、より良い働き人にする為に訓練していると信じましょう。主は一人でも多くの人が救われる為に、福音を伝える人を必要としています。世の人が救われる為には、福音を、良い知らせを伝える人が必要です。私達は弱くて良いのです。主が用いてくれるからです。