メッセージ(大谷孝志師)
私は主イエスを誰と言うか
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年7月2日
マルコ 8:27-33「私は主イエスを誰と言うか」 牧師 大谷 孝志

 私達は、主イエスについて、聖書や説教、他の人の理解や考え方を通して自分の理解を持つ。しかし大切なのは、自分が今主をどんな方として理解しているか。私は主は多くの人求めに応えて病を癒し、悪霊を追い出し、社会から疎外され、他人々を仲間として受けれ、大切にした方。私と全ての人の為に十字架に掛かって死に、三日目に復活した方。今も全ての人と共にいて、力強く働き続けている。 さて、主は弟子達が自分の事をどう思っているかと尋ねたのか。聖書は、様々な箇所で、主が人の心を見抜く方と記す。主は彼らの心の内を見抜いたからこそ、彼らに尋ねた。彼らの信仰を確かな者とする為に。主は先ず、他の人々が何と言っているかと尋ねた。彼らが挙げた人々は、考え得る最高の人々。「預言者の一人」は神が特別に送ると約束した人。日本でも理解を超えた人を「〜の再来」と言うが、主も当時の人々にはそう見えたから。ヨハネは既に処刑死したバプテスマのヨハネ。エリヤは偉大な預言者の一人。主はそれ程の人物と人々に見られていた。

 主は次に弟子たち自身の理解を尋ねた。これは私達にとっても大切な事。私達は主について「聖書にこう書いてある。教会の人達はこう考えている、世の人々はこう見ている」と思い、それが自分の考えになってしまっている場合が。その時、主を見ないで、人を見て、主が自分にとってどんな方かを考えずにいるから。大切なのは、自分が主イエスをどんな方と考え、主をどんな方と他の人に紹介できるかと自問する事。先ず、自分が見えない主にしっかり目を注ぐ者になろう。

 聖書はこの主イエスの問いに対する答えで大切な事を教えている。それは「彼らは答えた」ではなく、「ペテロがイエスに答えた」と記している事。信仰告白は、皆がこう信じているから、私も信じていると告白するのではなく、私はこう信じると、自分の言葉に自分が責任を持って自分の考えを表明する事と聖書は教える。

 ペテロは「あなたはキリストです」と言った。この言葉はこの福音書では冒頭にあるだけ。人の言葉としてはヨハネ福音書のサマリアの女性の言葉だけ。人としてこの世に生きているイエスを、神が世に遣わしたメシア、救い主と彼は告白した。彼は主イエスに私に従いなさいと言われ、全てを捨てて従い、主と生活を共にする中で、主イエスがキリストと信じたから、そう告白した。主はこれを聞き、誰にも言わないようにと彼等を戒めた。この「戒めた」は32節で「いさめる」33節で「叱る」と状況により訳し変えられているが原語は皆同じ。主は何故、自分がキリストであることを誰にも言うなとペテロだけでなく、弟子達に命じたのか。それは「キリスト」が、弟子達が復活後の主に尋ねた(使徒1:6)ように、イスラエルの為にかつてのダビデ・ソロモン時代の王国のよう国を再興する「政治的メシア」を意味していたから。主イエスは確かに人々に恵みと平安を与えるキリスト、救い主、しかしそれは人々を支配している罪と死から人々を解放する為に、死んで復活することにによって人々に可能になること。だから主は、ここで自分が何者であるかを示した。しかしペテロは古い理解の囚われ、主を諫めた。聖書は真理を教える。だから聖書を読めば主イエスがどんな方かが分かる筈。しかし、古いこの世的理解に留まり、様々な先入観に囚われると真の主イエスを理解できない。心を静め、真理を理解させてと求めつつ自分への御言葉として聖書を読もう。主は求めに応え、御霊が助け、イエスが主キリストと知らせ、自分を捨て自分の十字架を負って従うべき方と分かる。人々に主イエスはこういう方と知らせられる。