メッセージ(大谷孝志師)
主と共に生きる私達
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年7月9日
ヨハネ6:52-71「主と共に生きる私達」

 私達は先週聖餐式を行い、パンと葡萄ジュースを戴きました。主は今日の個所で、私の肉を食べ、私の血を飲むと言いましたが、聖餐式で私達は主の肉を食べ、主の血を飲むとは思っていません。これは普通のパンと葡萄ジュースと分かっています。主が、聖餐式で戴くパンは私の肉であり、葡萄ジュースは私の血であると教えたのは、世のものであるパンとジュースが、霊的に主の体、血となって私達の内に入るのだと教える為です。パンは主イエスの肉体の一部を象徴し、葡萄ジュースは主の血を象徴していると信じて私達は戴きます。しかし「私の肉を食べ、私の血を飲む者は」と主が話すのを聞いて、弟子達の内の多くの者が「これは酷い話だ。誰が聞いていられるだろうか」と思い、躓きました。これは弟子達に限りませんでした。キリスト教がローマに深く浸透し、多くの人々が主イエスを信じキリスト者になったのですが、ローマの人々はキリスト者を人の肉を食べる邪教信者と警戒したと古文書に記されています。弟子達が驚き恐れたのも当然だったのです。彼らを躓かせたと知った主は「それなら、人の子(主イエスのことです)がかつていた所、父なる神の御許に昇るのを見たらどうなるのか」と言います。

 パンが主イエスの肉であり、葡萄酒が主の血であることは信仰によって理解する以外にない霊的出来事です。それは私達が主の晩餐に与る時に起きる霊的出来事であり、私達はそう信じて、聖餐を戴くのです。これは罪人である私達の内に主が共にいるようにする為に必要だからです。私達が使徒信条で告白しているように、主イエスは十字架に掛かって死んだが復活し、天に上り、神の右に座しています。しかしその主は、主の肉を食べ、主の血を飲む私達と共にいて、私達が主の内に留まり、主がその人の内に留まるという霊的出来事が起きているのです。しかし主の肉と血である聖餐を戴いても、この世の知恵に縛られていては、何の益にもなりません。主イエスが十字架に掛かって死に、復活して天に上り、主キリストとして私達と共にいるこの事実を私達が自分の体で確認するために、主は聖餐式をするよう命じているのです。この聖餐式の意味を理解する為にも、聖書の言葉、主の言葉を、単なる昔の人が書いた言葉として読むのではなく、神の霊感によって書かれ、私達に真理、真実を教えるものとして、心に刻みつつ、聖書を読みましょう。

 さて、主は弟子達の中にその事を信じないで、ご自分を裏切る者がいると知っていると言います。そして「父が与えて下さらない限り、だれもわたしのもとに来ることは出来ない」と言います。これは6:37と同じ意味なのですが、否定的表現の言葉です。つまり、彼らが主イエスの元に来て、共に生活しているのは、父なる神が彼らを私に与えたからと言ったのです。それを信じることが彼らに必要だからです。しかし主にそう言われても、彼らの多くの者が、離れ去り、主イエス一緒に歩もうしなくなりました。私達も彼等のように、教会生活を続け、主と共に歩む中で、主に躓くことがあります。世界の悲惨な状況を見て、主イエスが全ての人の主であるなら、世に酷い事が起きているのに何故、放置しているのか、主は彼等の主ではないのか。本当に愛の主なのかと呟き、余りの悲惨な出来事に躓き、教会を離れたくなったり、信仰を辞めたいと思うことがあったかもしれません。主イエスを信じるとは、主の御言葉を自分の常識で判断するのでなく、自分の為に語られたみ言葉、自分がなすべき事は何か示すみ言葉として聞くことが大切なのです。

 主は12人に「あなた方も離れて行きたいのですか」と尋ねました。主が自分のの言葉を彼らがどう聞いたのかを確かめたのです。するとペテロが「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠の命の言葉を持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています」と答えました。模範解答です。しかし主はこれを聞いて「私があなたがたを選んだのではありませんか」と言いました。この言葉には、私達にとって大切な事が含まれています。こう答えたペテロは後に、捕らえられた主の後を遠くから付いて行き、お前はイエスと一緒にいたと言われ、三度も自分はイエスと関係ないと言い切りました。主が永遠の命の言葉を持つ神の聖者と信じると表明したのに、主イエスを裏切ってしまったのです。しかし彼は、主が全てを知った上で、自分を弟子として選び、共に歩んでいたと知り、悔い改めました。

 私達もペテロと同じ人間です。主を信じ従っていても、結局は彼のように、自分大事になってしまう弱さを持っているのです。しかし聖書は、そのペテロ達は主が誰であるかを正しく告白したと記しました。それは、私があなたがたを選んだと主が言ったように、主が彼の全てを知った上でご自分の弟子として選んだのです。ですから、彼らは主に従い、主の弟子として歩み、主を正しく告白できたのです。私達も同じです。私達は主に選ばれたから、主を信じ、救われ、キリスト者になったのです。まだ主を信じていない人も、この教会に来て、主を礼拝しているのは、キリスト者になり、腑に従う者になる為です。勿論私達は自分の意思で、主イエスを信じ、自分の意思でこの教会に来ています。しかし、私達の思いを遙かに超えて、主が私達を選び、この教会の一員としてこの世に生かしていると心に刻むなら、主に選ばれた者に相応しく生きる事、主にしっかりと繋がり、主と共に歩めると知りましょう。とは言え、この霊的真実は世の常識とは違うので、聖書が教え、自分達が信じているこの事が、真実かどうか分からなくなることがあります。しかし、私達はその誘惑に負けずに、信じない者でなく、信じる者になれます。私達は主と共に生きているからです。主を信じ、救われた時の自分に立ち返れば、主と共に生きる自分に気付けるからです。

 「しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です」と主は言いました。これはイスカリオテのユダのことです。彼は主イエスを裏切り、祭司長達に主イエスを売り渡し、彼らが遣わした人々が主を捕らえられるよう、主がいるゲッセマネの園まで追っ手を案内し、主を捕らえさせ、裁判に掛けさせました。そして主は、彼の裏切りにより十字架付けて殺されました。彼は、イエスに有罪の判決が下ったと知って後悔し、銀貨30枚を祭司長達や長老達に返そうとしたが受け取って貰えず、銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首を吊って死にました。そのユダが悪魔であり、神が私の弟子の一人に選んだのだと主は言ったのです。ペテロとユダを主の弟子として神が選んだように、私達も神に選ばれ、この教会の一員としてここにいます。私達は悪魔でしょうか。私達は自分達が御霊が内に住む神の宮であるという霊的事実を信じています。それと共に、悪魔という霊的存在がいることも信じましょう。悪魔は確かにいるからです。でも主を信じ主を礼拝している私達は悪魔ではありません。主の十字架の死の為に悪魔は弟子達の中にいました。しかし今、十字架の主の死の故に救われた私達には、主が共に生きているのです。その事を信じ、救われ神の宮となった自分として、御霊と真理によって神を礼拝しましょう。私は主イエスを信じますとの信仰に堅く立ち、主と共に歩み続けましょう。