メッセージ(大谷孝志師)
豚にとって真珠は何か
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年7月9日
マルコ 7:6「豚にとって真珠は何か」 牧師 大谷 孝志

 聖書には諺の元となった言葉ある。私は「豚に真珠」という言葉は知っていたが、教会に来る迄、この諺がこの聖句から作られたと知らなかった。余り良い印象を与える言葉ではないが、他にも「猫に小判」「馬の耳に念仏」というようにこれと同じような意味を持つ諺はある。これらは「価値が分からない者に価値のあるものを与えても無駄になるのでするなと教える諺。「犬と豚は、ユダヤでは汚れたものの代名詞とも言えるもので、本来は異邦人、異教徒を指す差別用語。しかし、「犬や豚は」と訳されているが、原文は「それら」とあるだけで、豚だけを指していると考えられる。「聖なるもの」は神殿に捧げられた肉で、自分に投げられた肉を、足で踏みつけ、向き直って投げた人を噛み裂くとは考えられないから。「聖なるものを犬に与えるな」の意味を繰り返しながら、「また、真珠を豚の前に投げつける」で、その意味を強めていると考えられている。

 それにしてもこの譬えは冷たい感じがする。今祈祷会で学んでいる「山上の説教」には確かに厳しい戒めが数多くある。それらには、ほっとしたりする余地や自分が弱いから仕方がない諦めが感じられる逃げ道が用意されている。しかし、この戒めにはそい言うものが感じられず、冷たさだけを感じさせられてしまう。だから、この犬と豚を異邦人を差別する本来の意味で使っていると考える人も。

 しかし主は教えの中で異邦人を非難したり、裁いたりしていない。むしろ6章の最後で、異邦人もユダヤ人も神から見れば同じと教える。異邦人は真の神を知らず、神の祝福の外にいるので、祝福に与れない無駄なことをしているだけと言う。

 主は確かに偽善者は厳しく非難している。しかしその根底に「あなたがたがそうならないようにと、私は、あなたがたに教えている」との主イエスの愛がある。だから、豚を異邦人や偽善者と考えたりするのは、主の考えとは違うことになる。また主は、偽預言達に用心しなさいと言い、彼等は天の御国に入れず、(地獄の)火に投げ込まれて滅ぼされると、主の言葉を聞いても行わない人々に非常に厳しい態度を取る。とは言え、偽預言者であっても、彼等は聖なるものの意味を知るので、犬や豚が彼等を指しているとは考えられない。では一体何を指しているのか。

 では、聖なるものを与えてはいけない人、真珠をその人の前に投げてはいけない人は誰を指しているのか。端的に言えば、主イエスの恵みの言葉、福音を理解できない人。しかし、主は全ての人に福音を伝えよと命じている。だから、福音を伝えるなという意味ではない筈。幾ら福音を伝えてもその真意が理解できない人々への主の歯がゆい思いがこの極端で刺激的言葉に表されていると私は感じた。

 だから主はこの譬えで、私の言葉の意味を知り、それを聞いて行う人になって欲しい。聖なるもの、神の恵みを与えようと、福音を知らせようと思っても無駄だとキリスト者に諦めさせような人、つまり、聖なるものを与えられない犬のようにならないで欲しい。真理に満ち溢れた素晴らしい福音を伝えられても、その真価が分からず、余計で、くだらないものを投げるなと、敵意を持って向かって来る、豚のようにならないで欲しいとの思いを込めているのです。そして主は「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます」と言い、福音の大切さが分からなければ、求めてみなさい。そうすれば、必ずその意味が分かるようになります。福音は誰でも求めるなら、その意味が分かるように、私が助けるからと教えているからです。