メッセージ(大谷孝志師)
主に仕える者だから
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年7月16日
コロサイ3:18-4:4「主に仕える者だから」

 パウロは一般論としてキリスト者はどう生きるべきかを教えた後、18節から、妻、夫、子ども達、奴隷達と家庭内の人間関係に付いて教えています。

 最初に妻達に「主にある者にふさわしく、夫に従いなさい」と命じます。妻についてが最初にあるのは、当時の社会では家庭内において女性には一切の権利が認められず、妻は夫の所有物と見なされていたことが背景にある考えられます。聖書では、女は男の助け手として造られていますが「男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となる」とあります。ですから、キリスト教においては、夫婦は男女の機能、役割の違いは有っても、基本的に、協同、共同の関係にあり、互いに責任を持ち合う対等の関係にあります。しかしコロサイ教会のキリスト者の中にも、当時の男尊女卑の風俗に影響され、妻を夫の所有物と考える人達がいたようです。そこでパウロは、先ず妻に対して「主にある者にふさわしく、夫に従いなさい」と命じます。彼がこの後で、奴隷制度を悪として認め、それを打破するよう命じていないように、聖書は、夫婦においても機能と役割の違いから来る立場の違いが有るとし、妻は夫に従うことを打破すべきこととしません。キリスト者の夫婦関係が社会の中で違和感を持たれ、社会から分離され、伝道にマイナスにならないよう教えていると言えます。ですから彼は、妻に対して「主にある者にふさわしく、夫に従いなさい」と命じました。キリスト者の全ての人間関係は、「主にある者に相応しい」かどうか、つまり、主キリストとの関係を基盤にして為されることが正しいことだからです。奴隷のように従うのではなく、神が与えた夫と共に生きる妻の役割を果たすことで、家庭が主に喜ばれるものとなると教えるのです。ですから次に、彼は「夫たちよ、妻を愛しなさい」と命じます。夫にも妻を愛しなさいと命令する必要があるからです。これはアガペーの愛です。これはキリスト教独特の愛で、世で一般的に使われる愛情を表すフィレオーや性的愛欲を表すエラオーではなく、妻を自分と同じ神の似姿に造られた女性として愛するよう命じたのです。言い換えるなら、主ご自身が抱いている愛の心をもって、妻の幸せと平安の為に配慮するすることを求めたのです。

 また「妻に辛く当たってはいけません」と命じたのは、当時の社会の風潮から、キリスト者の中にも妻に辛く当たる者がいたからと思われます。ですから、ペテロも自分の手紙の3:7で「夫たちよ、妻が自分より、弱い器であることを理解してともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい」と、夫に妻への愛と尊敬の念が必要と教えています。

 次にパウロはキリスト者の親子関係に触れ「子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです」と言います。彼は夫婦の関係についての教えた後に、子に対して教えました。ユダヤでは子どもも女性も民の数に入れません。しかし主は「子どもたちを私のところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです」と弟子達に言いました。主は子の親への姿勢の中に神の民としての自分達が学ぶべき資質があると教えたのです。ですから彼は「すべてのことについて両親に従いなさい」と言ったのです。子はやがて両親のように大人に成長していきます。ですから、子が全てのことについて両親に従順に聞き従うことにより、大人になって、自分の判断で、取捨選択して神に従うのではなく、従順に御心に従い、神に喜ばれる神の民となれると教えたのです。

 聖書は親子関係について、両親は子に対し、神の代理者として召された者としての関係にあると教えます。つまり神は、両親に子を訓練する責任を与えると共に、親としての固有な権威も与えていると教えています。ですから、十戒第五で「あなたの父と母を敬え」と命じました。また、両親の戒めを守る子は神の祝福を得、不服従な子には厳しい裁きが下ると聖書は教えます。しかし、聖書が両親への尊敬や服従を教えるのは、両親が優れた品性等の持ち主だからでも、世襲的階級的身分制度に立脚したものでもなく、両親が、自分達は子の人格形成上の教師であると自覚し、何よりも両親が子の尊敬に値する者として成長することが期待されているからなのです。

夫婦には、互いの選択という要素がありますが、親子には選択の余地がなく、親子の関係は受胎の時に既に決まっています。更に、血の繋がりは親と子の意思で解消できません。ですから、神が親に子を子に親を与えたと互いに信じることで、真の親子関係が成立すると知ることが大切と聖書は私達に教えています。

 最後に奴隷と主人の関係に付いて教えます。奴隷に対しても子への教えと同ように「すべてのことについて地上の主人に従いなさい」と教えます。奴隷達に対してのこの教えが一番長く丁寧です。それは神の国に生きていながら、奴隷達は主人の支配の下で生きているからです。パウロの言葉には、彼らの苦悩への温かい配慮が感じられます。彼は奴隷である人々に「人のご機嫌取りのような、上辺だけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」と教えます。弱い立場にいる人は、誘惑に負けやすいからです。「少しくらい誤魔化して自分が良い目を見たって良いじゃないか」と、何が正しいかよりも、自分が良い思いができるかどうかで、自分の言動を決めて、不正を行えば、自分がした不正を報いとして受けることになると教えます。自分が奴隷であることを御心として受け止め、その状態の中で、自分が奴隷であるという弱さに負けずに、主を信じている者として、正しく、主に喜ばれるよう生きることが大切とパウロは教えているのです。それに加えて、奴隷状態を強いられている彼らは「主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです」と彼は言います。彼は、奴隷が辛く苦しい状況に立たされた時、その時、自分は目に見える主人に仕えてはいるが、自分は目に見えない主キリストに仕えているという思いに立ち返り、世の終わりが来たら、御国で主キリストと共に永遠に生きる約束を与えられている自分であることを忘れてはいけないと教えます。

 そして主人達に対しては「自分たちも天に主人を持つ者だと知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい」と教えます。奴隷には主人であっても、自分も天の父なる神、主イエスの僕、奴隷であることを忘れずに、奴隷に対して主に相応しい者として接して生きるよう命じたのです。

 私達は人として様々な人間関係の中に生きています。その中で平安で喜びに溢れた関係で生きるには、先ず、自分は主によって今の立場と環境に置かれ、生かされていると信じることです。そして、その事を主の恵みとして受け取り、人に接する時、その人にだけ接するのでなく、見えないが目の前にいる主に接している自覚を持ち、主キリストに仕える思いで相手に仕え、自分なりに、自分らしく生きられる生活ができるよう心掛けましょう。そうすると、私達は永遠の命という最高の恵みを戴いているキリスト者に相応しく、この世の様々な人間関係の中でも、自分の人生を自分らしく生きられます。