メッセージ(大谷孝志師)
壁にぶち当たったら
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年7月16日
マルコ16:1-8「壁にぶち当たったら」 牧師 大谷 孝志

 今日の個所は、主が十字架に掛かって死に、三日目に復活した朝のことです。 主が十字架の上で息を引き取った後、埋葬を終えるまでの時間は二時間程だったので、正式な埋葬方法の遺体に香料を塗る作業が出来なかった。自分達を愛し、心の支えだった主の体にできるだけ早く香料を塗り、心からの奉仕をしたかった。だから、彼女達は週の初めの朝早く、安息日が開けるのを待って墓に出掛けた。その墓は横穴を掘り、入り口に盗掘を避ける為に溝を掘り、大きな石を転がして溝に落としてあり、彼女達三人ではびくともしない。何故彼女達は、不可能なのに中に入らなければ出来ないことをする為に墓に向かったのか。不可能と思い諦めてしない場合がある。しかしやってみなければ分からない。落ちる確率が高いと知り受けなければ、試験に合格はしない。人は合格して新しい人生をそこで歩みたいと思うから受験する。受験するからその人に合格の可能性が残されている。三人は自分達がそうしたいと真剣に願ったからこそ、行動に移せたのではないか。

 彼女達は「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合った。その時三人は互いを見ていた。だから不可能なものは不可能でしかない。しかし、誰かがと言ったことに彼女達の信仰が。人を見ても不可能と思うだけ。確証もなければ保証もない。しかし、誰かが道を開いてくれるとの希望を持った。だから三人は目的に向かって歩み続けている。その信仰が私達にも求められる。

 希望を持ったとしても、壁にぶち当たっている事実に変わりはない。人は自分にはどうしようもないと考えてしまうと諦めるしかない。目に見えるものしか事実でないから。一寸先は闇と言う。裏返せば、一寸先にはどんな良い事があるか自分にも分からないということでは。また人には目がうつろになる場合が。ぼうっとしていて目の前で手が振られる場合も。人は、目先の事に囚われてしまうとそれが目の前の壁になり真実が見えなくなる。自分達を見つめ合って話し合っていたが彼女達が「目を上げると」とある。壁となっている目の前の現実について、何がどうなっているのかを知ろうと、目を上げて見えない神に目を注ぐ事が大切。その時彼女達が「目を上げると。その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった」とある。聖書はこの表現で、神がこれをしたと婉曲に表現している。神が彼女達の願いに応え、その希望を不思議な形で実現した、と聖書は教える。

 神は、私達が不可能だと思っても諦めず、自分や自分達にはどうしても必要だと思い、神は自分達に必要であれば必ず実現する、勿論確証も保証もない。でもそうなると信じ、希望を持って前進すればよい。もし、不可能と諦め、壁に向かって住む事を諦めたら、その壁が既に破られている事を見る事は出来ない。その壁の向こうにある喜びを自分のものにすることは出来ない。
 目の前も壁がどんなに大きく強く感じても、その壁は私達を成長させる為の神からの一つの挑戦と考えよう。神は私達を押し潰したり、悲しませる為でなく、神に全てを委ね、神が私達を愛し、最善を為す方であることを私達が知る為に備えたもの。壁に直面していないと思っていた人は、自分にとって必要なものは何か。為すべきことが何かを真剣に考えていなかったのではと自分を吟味しよう。

 自分が壁にぶち当たった時は、この壁を通り抜けさせる経験をさせることを通して、私達の人生を更に豊かなものにする為に、神が自分達の為に用意した時であると信じ、その壁に前進を諦めるのでなく、その壁に向かった進む者になろう。