メッセージ(大谷孝志師)
神はご自分の民を顧みる
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年7月23日
ダニエル6:16-28「神はご自分の民を顧みる」

 ダレイオスはメディア人と有りますが、ペルシアの王です。王はゾロアスター教の熱心な信奉者で絶対君主でした。しかしダニエル書は、このようなこの世で絶対的権力を持つ王であっても、イスラエルの神、私達が信じる主イエス・キリストの父なる神の支配下にあると私達に教えています。全ては私達が信じる神の御手の内にあるからです。ここに登場するダニエルは、2.4章で王の見た夢の内容と意味を神に示されて見事に解き明かし、バビロン、ペルシャ王国の王達の信頼を得ていました。ペルシャのペルシャツァル王の死後、王位に付いたダレイオス王もダニエルが他の大臣や太主より際立って秀でていたのを知り、彼に全国を治めさせようとしたのです。神が異教徒の王に、ダニエルの内に優れた霊が宿っているのを見抜かせたからです。3章の時、捕囚の民であるユダヤ人が高い位に就くのを妬んで中傷の対象にしたのは、彼の友人達、シャデラク、メシャク、アベ・デネゴでした。彼らは王が建てた金の像を拝むことは偶像礼拝になるので断固として拝みせんでした。彼らを妬んでいた人々が王にその事を訴えたのです。王は怒り狂い、彼らを連行させ、拝まなければ火の燃える炉の中に投げ込むと脅しました。しかし彼らは、「私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出せます。しかし、たとえそうでなくても、王よご承知ください。私達はあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むことはしません」と言い切りました。その答えに、王は更に怒り狂い、炉を七倍熱くして彼らを投げ込ませたのですが、投げ込んだ人々が焼き殺されても、彼らは神の使いに護られ、髪の毛も焦げず、依然と変わらない姿で炉から出たので、王が彼らの神を褒め称えました。

 しかし6章のダニエルを妬む大臣や太守達の妬み方は陰湿です。彼らが彼を訴える口実を見つけようとしても、彼には何の怠慢も欠点も見つけられませんでした。それで、彼が自分の家で、エルサレムに向かって空いている窓から、日に三度跪いて自分の神の前に祈って感謝を捧げているのを知り、その信仰を利用しました。彼らは、神にでも人にでも、王以外に祈願する者は獅子の穴に投げ込まれるという禁令を制定し、更に、王の気が変わっても取り消えせない法律にするよう求め、王は了承し、署名しました。しかし、ダニエルはその法律が制定されても、彼らの思惑通り、自分の神に祈ることを止めません。法律よりも自分の信仰が大切だからです。彼らはそれを見つけると、早速王に、彼が禁令に違反したので、獅子の穴に投げ込むよう要求しました。王はこれを聞いて非常に憂い、ダニエルを救おうと気遣い、日没迄手を尽くしました。王が彼を任命して、全国を治めさせようと思った程のダニエルです。彼の人柄については熟知していた筈です。こうなる事も考えられなかったのでしょうか。言えるのは、聖書はその事に関心がない事です。聖書は、ユダヤ人の信仰と彼らに知恵と力を与え、守り導く神の配慮は詳しく記しますが、異教徒の王の聡明さ、知恵の豊かさには余り関心を示さず、彼らが、ユダヤ人の聡明さと神に与えた豊かな知恵に驚嘆し、彼らの神を褒めて称えることは詳しく記します 聖書は単なる歴史書ではなく、イスラエルの神が唯一の神であり、万物の創造者、支配者であることを証しする為に、聖霊の導きによって書かれた書物だからです。旧約の時代の出来事について書かれてはいるのですが、この神は、私達が信じる主イエス・キリストの父なる神です。同じ神を信じている者として旧約聖書も読みましょう。

 躊躇する王に苛立ち、ダニエルを訴えた人々が王のもとに押し掛け、刑の執行を要求します。絶対君主制の国であっても無法地帯ではありません。どんな社会でも何らかの法律があり、それを守ることによって社会が成立しています。ですから王は、法律を守らなければ自分の身が危うくなると知るので、ダニエルを獅子の穴に投げ込ませます。その時、王はダニエルに「お前がいつも仕えている神が、お前をお救いになるように」と話し掛けます。王がダニエルの神を信じて、彼の神が彼を救い出すと信じてそう言ったのではありません。そうであれば、この後宮殿に帰り、一晩中断食をし、側女を召し寄せず、眠ることもしなかった筈です。彼はただ不安と恐れで胸が一杯だったのです。私達も自分の力ではどうにもならない困難に、自分や相手が直面した時、主が自分や相手を助けて下さると信じていでも、不安や恐れに囚われてしまうことがあります。しかし私達を愛し導く主イエスを信じているので、御心を知ることが出来ないと分かっていても信じること、主に全てを委ねることが出来ます。彼は23節にあるように、神に信頼していました。彼は何の傷も受けずに、彼は穴から引き上げられました。その獅子が人に危害を加える力が無かったのではありません。王の命令でダニエルを中傷した者達をその妻子と共に穴に投げ込むと、彼らが穴の底に達しないうちに、その骨をことごとく噛み砕いてしまうほどだったからです。私達が信じる神は、どんな状況に置かれていても、私達が神に信頼しているなら救い出す方であると聖書は教えています。

 眠れぬ夜を過ごした王は、日が昇ると獅子の穴に急行します。王はダニエルに悲痛な声で「生ける神の僕ダニエルよ。お前がいつも仕えている神は、お前を獅子から救い出すことができたか」と呼び掛けます。彼は先ず王を祝福します。大臣や太守達の策略に乗せられ、自分を獅子の穴に投げ込んだ王を先ず祝福したのです。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。人は弱く、罪を犯します。意図的にせざるを得ずに罪をした場合もあれば、自分の行為の意味や結果も分からずに、罪を犯してしまったしてしまったという場合もあります。聖書は、赦した後の事は、神に全てを委ね、「先ず赦しなさい」と教えるのです。相手をそのまま受け入れるのが、父なる神の愛、主キリストの愛だからです。ダニエルが王をそのまま受け入れ、愛したことにより、王は彼が信じ仕える神を褒め称えました。そして彼は異教の王の地で、捕囚の民でありながらも、恵みと平安を与えられて過ごしました。

 私達は新約聖書と旧約聖書を併せて「聖書」と呼びます。旧約聖書は罪人としての自分達の生きる世界をそのまま記すことで、主イエス・キリストの十字架と復活による救いの必要性と意味を教え、新約聖書は主の十字架の死と復活により救われた人々の証により、それが全ての人を愛する父なる神の行為であり、全ての人の救いの為であると教えています。今日の個所も、私達の救いについて大切な事を教えています。主イエスは罪を犯さなかったのに捕らえられ、死が待つ十字架に付けられました。ダニエルも罪を犯さなかったのですが、捕らえられ、獅子の穴に落とされました。彼が死の危険を知りながら、神を信頼し祈り続けたように、主も神を信頼し、ゲッセマネで神に全てを委ねて祈りました。彼が何の傷も受けずに獅子の穴から出て来て、王を祝福したように、主は霊の体で復活し、弟子達を祝福したのです。私達は全能の父なる神を信じ、そのひとり子主イエス・キリストを信じ、聖霊を信じます。この信仰を与えられていることを感謝し、信仰の喜びを体全体で感じつつ、主の証人としてこの世で大胆に福音を宣べ伝える者になりましょう。