メッセージ(大谷孝志師)
何が一番大切か
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2023年7月23日
ルカ14:25-35「何が一番大切か」 牧師 大谷 孝志

 キリスト教は十字架に掛かって死に、復活したイエス・キリストを主、救い主と信じる宗教。旧約聖書は「主」とは万物の創造者にして、唯一の主権者、生と死の支配者である神と教える。この世に生きていたイエスは「先生(ラビ)」或いは「主」と呼ばれた。ラビはユダヤ教宗教指導者の尊称。主は全面的に服従すべき人の尊称。人々は、イエスには主なる神の知恵と力があり、人知を遙かに超えた方と見て主と呼んだ。外面を見ていただけなので。抵抗せず、捕らえられたイエスに失望し、十字架に付けよと叫んだ。しかし私達は、イエスを聖書と教会の宣教によって知らされた十字架に掛かって死に復活した方、神を完全に現す方、そして万物の創造者、生と死の支配者である主なる神を完全に現す方として、主と呼ぶ。

 では、主イエスが救い主とはどういう意味か。救うは掬うに通じる。或る状態や場所か別の状態や場所に移し替える行為。イエスが救い主と言うのは、主が人を罪の世界から、神の恵みの世界に移す方だから。罪の世界と神の世界の違いは、闇と光、時と永遠、無意味と意味、絶望と不安に満ちた世界と希望と喜びに満ちた世界の違い。罪の世と神の国の違いは、神の無き世界と神と共に生きる世界の違い。

 全ての人をこの神と共に生きる世界に移す為に、主は十字架の死という代価を払った。私達を神と共に生きる恵みの世界に移す為に、自分の命をその代価とした。その主が、もし、私のもとに来た人で、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、更に自分の命まで憎まないなら、私の弟子になれないと言った。憎むと言うと、十戒の「あなたの父と母を敬え」に反する印象を受けるが、決して反するものではない。「より少なく愛する」の意。主は、私に従うことより、父と母を敬うことを優先しては神は喜ばないと教えた。私達は父母だけでなく、世に生きていると様々なものが一番大切に見えて来る。しかし、主の言葉に聞き入っていたマリヤのことで不平を言ったマルタに言ったように「必要な事は一つだけ」。私達にも一番必要なものはただ一つだけ。

 主はその事を二つの譬えで教える。一つは「塔と建てようとする時、先ず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人はいない。計算しないと、土台を据えただけで、完成出来ず、人々の笑いものになる』の例え。塔の建築を人生を建て上げることに例え、豊かな人生を送るには、神の恵みと神の知恵が必要で、自分の力と知恵にだけ頼っていては、人生に挫折する可能性が大きい。私には人生を完成させる力が有る。だから私に従いなさいと主は教えた。

 次は戦争の例え。これは少し複雑。自分と相手の戦力を比較し、敵を迎え撃てないと分かれば、降伏し、講和条件を尋ね、全面降伏を示されても、受け入れるしかないとの例え。この相手は悪と神の二つになっている。神に喜ばれ、豊かな人生を送る為には、自分の知恵や力では悪の力に勝てないと知り、主に全面的に頼れば良い。だが、自分が財産への思いを保持し、それに頼っている限り、主に頼り切れず、主の弟子になれない。主に従うことが大事と思うなら、それを一番大事にしなければならない。他の物を全て捨て、主に頼れば、それで十分との思いで、自分の十字架を負って、刑場に向かって進むくらいの覚悟で、自分を主に明け渡すなら、私達は主の弟子となり、喜びに満たされ、安心して世に生きられる。悪魔は様々なものに目を留めさせ、これが必要と誘惑するが、無くてならぬものはただ一つ。主の弟子となって、主と共に生きること。これ以外のものを必要と思わせる悪魔の誘惑を裁ち切り、主によって生きることを第一して生きよう。