メッセージ(大谷孝志師)
知るでなく悟る者に
向島キリスト教会 礼拝説教 2023年8月6日
マルコ8:14-21「知るでなく悟る者に」

 この箇所は主イエスの一行が、ガリラヤ湖畔のベツサイダに向かう途中の舟の中の出来事です。6章、8章に、主が弟子達に配らせた数個のパンで大群衆が満腹した事が書かれています。主は突然、弟子達に「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気を付けなさい、」と命じました。これを聞いて弟子達は驚きました。主はなぜこんな事を言ったのかと考えた彼らは、自分達がパンを持って来るのを忘れていたので、それを指摘されたと思い、互いに議論を始めました。主が自分達と生活を共にし、様々な奇跡を目の当たりにした彼らは、自分達が特別な人間になっていたような気がしていたのでしょう。その彼ら心の中を知る主が、彼らの為に「パリサイ人とヘロデのパン種に気を付けなさい」と命じ、彼らがサタンに心の隙を突かれて、誘惑に陥らないように気を付けなさいと言ったのです。しかし、主に叱られたと思った彼らは、責任の追及と言うか、責任の擦り合いを始めてしまいます。

 私達も、聖書の言葉を読んだり、聞いたりしている中で、ハッとさせられることがあります。その時、それを自分の性格や行為に照らし合わせて理解してしまい、その結果、その言葉によって自分や相手を裁いていたと気付いたなら、聖書の言葉は知っていても、この弟子達のように、悟っていなかったと気付きましょう。Uテモテ4:16にあるように「聖書は全て霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益」なのですが、私達がキリスト者として「全ての良い働きに相応しく、十分に整えられた者となるため」であって、自分を他の人と区別したり、特別視させる為のものではないからです。主はこの点を彼らに指摘しました。つまり、主がパン種に気を付けよと命じたのは、ユダヤ人が、小麦粉に練り込ませたパン種が小麦粉を大きく膨らませることから、悪の力の例えに用いていたからです。ですから、パリサイ人やヘロデの生き方に、神に喜ばれる者、御心を行う者として生きることよりも、自分にとって良い、役に立つと感じさせ、その思いを自分の中で大きく膨らさせるパン種のようなものがあるから気を付けよと教えたのです。

 主がこの時、弟子達に「まだ分からないのですか、悟りないのですか」と言ったのは、彼らが何を知っていて、何を悟れなかったからなのでしょうか。彼らは、舟の中にパンが一つだけあるのを知っていました。しかし、主が数個のパンで何千人もの人々を二度も満腹させたように、一つのパンがあれば、主が彼らに十分に分け与える力ある方であると悟れれなかったのです。だから、パンが一個しかないことで不安になり、責任の擦り合いをしてしまったのです。自分達の所有物の小ささに気付いた彼らが、その現実に囚われて、主が無から有を生み出す力ある方、現実を変える方と悟れなかったのです。

 そこで主は「目があっても見えないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは覚えていないのですか」と彼らに言います。彼らは、主イエスが僅かなパンを裂いて多くの人々に分け与える奇跡をした時、パン屑を集めた時の数をしっかりと覚えていたので、五千人の為に五つのパンを裂いた時、集めたパン切れが十二の籠に一杯だったことも、四千人の為に七つのパンを裂いた時、集めたパン切れが七つの籠に一杯だったことも、しっかりと覚えていたのです。しかし彼らは、パン切れの量が膨大であったことを知っていても、それが今の自分達に取ってどんな意味があるのかを悟れなかったのです。それを悟れなかったことにどんな問題が有ったのでしょうか。

 私達は主イエスを信じているから、主を礼拝し、家族や友人知人を教会に誘いたいと思っています。でも、思いはあっても実行に移せない自分が厭になることは無いでしょう。誘ってもなかなか相手が教会に来ないので諦めて、自分の信仰の足り無さにがっかりして、兎に角、礼拝だけは守ろう、今はそれしか出来ないが、礼拝を守り続けていれば、主が機会を与えてくれるかもしれないと自分を納得させていることは無いでしょうか。そして、礼拝で説教を聴いたり、一人聖書を読んでいる時に、主イエスが行ったこの奇跡を、相手の目の前でしてくれたら、その人が主を信じないまま滅びることなく、私と同じように主を信じる喜びを味わってこの世に生き、永遠の命を頂いて神と共に生きられるのにと思ってしまうことは無いでしょうか。しかし、例え自分の目で主イエスの力を見ても、知識としてだけで終わったら、自分の知識が増えただけで、自分自身にも相手にも、何の変化も起きないのです。実は同じように、説教を聴き、聖書を読み、主イエスについての知識が増えるだけでしたら、自分も教会も強くなりません。知っているだけでは、ルカ4章の主の故郷の人々と同じになります。主イエスに力が無いから奇跡をしなかったのではなく、彼らが聖書の言葉の真の意味を悟らなかったからです。

 私達の人々の救いの為の思いが、実を結ばないのは、私達自身の内に足りないところがあることに気付きましょう。主イエスへの信頼と委ねが十分ではないからです。これだけ求めたのに、祈ったのにと思うのでは無く、幼児のような信仰で主に求めましょう。自分の健康、生活、将来と主イエスを秤に掛けて祈っていないでしょうか。主は「誰でも私に従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい」と言います。その主の前に自分を投げ出して求めることが求められています。信仰とは自分を捨てることなのです。弟子達は全てを捨てて主に従っていたつもりでした。しかしその彼等も自分を捨て切れす、自分の判断基準で主を見、自分達を見ていたのです。ですから、主は「まだ悟らないのですか」と言ったのです。

 悟るということは、自分がそれまで生きていた古い世界にではなく、それまで有ったのだけれども、気付かなかった新しい世界、イエスが主キリスト、神のひとり子、万物の創造者として全てを支配している世界に生きることです。主イエスが「私が道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ14:6)」と言ったことを、ただ知識として知るだけでなく、今自分がその主イエスと一緒に生きることです。悟るとは、単に知識を得ることではなく、その人が自分に知らされた全く新しい世界の中に生きていることを意味するからです。

 主は何故、弟子達に悟れないのですかと繰り返したのでしょう。悟れない限り、人は迷いの中に生きざるを得ず、どうしても現実の中で右往左往してしまうからです。真理を悟るなら、人は世の様々な迷いや憂いから自由になり、平安な生き方が出来ます。弟子達は主がいてもその事が意味し、その事が現す真理を悟れなかったのです。ですから、見当違いの責任の擦り合いをし、議論し合ったのです。彼らはこの時点では悟れませんでした。彼らが悟れたのは、復活の主が彼らの所に来て、彼らが主と出会った時です。

 私達も復活の主の臨在を悟るなら、信仰生活、人生が大きく変わります。主は十字架の贖いによって、私達の為に既に新しい世界を用意し、私達の世界の戸の外に立って叩いています。主の声に気付き、心の戸を開けましょう。復活の主の臨在を悟り、霊的感動が与えられ、心の目が開かれるからです。主が備えている新しい世界に生き、臨在の主の祝福を豊かに味わう者になりましょう。